AI共創短歌に関する(選)評(中島裕介)
AIと人間で力をあわせ短歌を作る「AI共創短歌」企画。最終的な投稿作品に対し、選評をおこなっていただきました。中島裕介さんよりあずかった原稿を掲載いたします。
この度は企画「AI共創短歌」の選者/評者としてお招きいただきありがとうございます。以下、常体で記します。
まず、AI共創短歌という企画を立て、実際にAIを作ったef氏に敬意を表したい。
本企画は一般的な「短歌の投稿」に留まらない。人間が作った〈短歌のたね〉をAIに学習させ、そのAIによる出力を元に人間が短歌を作るというプロセスを踏んでいる。〈短歌のたね〉も含めてプロセスが選者/評者に開示されている以上、そのプロセスを含めて批評するのが妥当だろう。
よって、本稿は(1)投稿歌のうちで相対的によい歌を選び評する、(2)短歌AIとの共創を経たからこそ現れた表現を見極める、という作品レベルの批評と、(3)短歌AIとはなにかを考える(4)AIと共創することとはなにかを考える、という企画レベルの批評の4項に分かれる。ご自身の投稿歌に対してどのような評が行われるか、という点が気になる方は(1)や(2)までで切り上げていただいて問題ない。
1.投稿歌のうちで相対的によい歌を選び評する
A短歌会の深水氏よりGoogle Spreadsheetを通じて提供された詠草は全部で47首。1セルに複数首が含まれているケースがあったため、無記名詠草の形に手直しして選歌を行った。Spreadsheet(横書き)形式であったため、選歌にあたっては横書きのままとした。評を書き終えるまでは作者名を見ていない。
看取りから声はわたしを住処としざわざわ揺らす 歩かなくては/唯有(ゆう)
(評)「看取り」とは単なる「看取」ではなく「誰かの死を看取る」ことだろう。看取りのときから、(おそらくは死者の)声がわたしを住処として移ってきたかのようにわたしのなかに宿る。こだまする。残る。こびりつく。その声がわたし自身を、場合によっては日々の生活やアイデンティティを揺らすのだという。その声を振り払うように、自分が自分に対して「歩かなくては」と決意し、命ずる。「ざわざわ」という表現は一般的に過ぎるかもしれないが、本企画の趣旨に照らすと許容すべき範囲か。
2.短歌AIとの共創を経たからこそ現れた表現を見極める
1の評を記したのちに、1の選の段階で△を付していた歌について作者と、〈短歌のたね〉とその作者を確認した。この2首はいずれも「短歌AIとの共創」という点ではなく、最終的な短歌の出来の良し悪しで選んでいる。結果的にいずれも、〈短歌のたね〉の作者自身が、AIによる改作を経て、自ら全面改稿した作品となった点は看過できない。
散りすぎてしずかになった錆奥に発酵の熱が蠢いている/Sand Pawns
(評)何らかの金属で構成された構築物、に錆がついて〈散りすぎてしずかになった〉のだろう。錆びるまでの時間経過から、現代(日本)に限らず、廃墟となった近未来的な背景も想像される。錆とは金属が酸素や水と結びつくことで生じる変化であり、発酵もまた、微生物による物質の変化である。人間にとって有益でないか否かという点では類似している。「錆奥」というのは造語であろう。その錆が発生しているところにも、微生物による発酵とその熱の発生を想像している点が興味深い。
跫音に歩調を合わす 闇色の君を朝陽が温めている/塩本抄
(評)明け方だろう。通常の歩行か、それともジョギングのような走行であろうか。誰かの跫音に自らの歩調を合わせる。闇色のように暗い衣類、あるいは暗い心情であろう君に対して朝陽が照らし、温めているように見えるのだという。「君」という表現である以上、まったく他人の「子」や「男」「女」ではない。作者は何か内心の事情を知っているのだろう。
3.短歌AIとはなにかを考える
さて、本企画のプロセスについてはef氏により明かされているとおりだ。既存のLLMに対して、幾人かが〈短歌のたね〉を「わたし」、すなわち学習させ、そのLLM+〈短歌のたね〉が〈短歌のようなもの〉を出力し、また希望する歌人がその〈短歌のようなもの〉を元に作歌したのだという。
このプロセスが試行されることそのものはとても興味深いし、その実践が尊重され、褒められるべきであることは明らかだ。その一方で、短歌に10年以上前くらいから関わってきた人間は「星野しずる」を知っている。今から遡ること16年前、2008年に歌人・佐々木あららが生んだ犬猿短歌というAIと、それを擬人化した「星野しずる」を。彼/彼女をベンチマークとして、今回の作者が真にAIを、少なくとも星野しずるを超えたか、という点で検討されるべきだろう。
今回投稿された47首に対して、いずれも「星野しずる」よりも人間らしい、とは感じた。ただし、「人間らしい」という評語は、出力された短歌が「一般的に見て、評価できるかどうか」という基準とは全く異なる。
今日のAIもまた、とても「人間らしい」。今回ef氏が用意した短歌AIによる〈短歌のようなもの〉も十分「人間らしい」ものであった――というのはどういうことか。すなわち、AIにとって学習しやすいモチーフと感情によって、〈短歌のようなもの〉が形成されていたと私は考える。また、大変「人間らしい」AIによる出力〈短歌のようなもの〉に学んだ歌人は、やはり大変「人間らしい」短歌の出力に留まった、と思う。この点は、本企画に参加された各歌人が、そもそも、普段の作歌において何を望んでいるのか、ということの違いによるのではないか、と僭越ながら想像する。「日常や日々の感情をうまく汲み取って短歌として記録し、読者にとって解凍しやすい形で手渡す」のであれば、すなわち「体験としての作歌プロセス」が大事なのであれば、今のままで何ら問題ないし、上述の、私の(選)評など一切気にすべきではない(これは、心底本心である)。
4.AIと共創することとはなにかを考える
私が理想とする「AIとの共創」については、第41回現代短歌評論賞をいただいた拙論に記した。
が、拙論は多くの方にとって読みづらいと想像する。本企画の参加各位に対して、おそらくわかりやすくなるであろう形にパラフレーズするならば「どうしようもなく、訳の分からない表現に出会って来い」と言えるだろうか。
既存のLLMはどうしても、分かりやすい表現を学習する。〈短歌のたね〉としてわかりやすい表現を与えれば、さらに分かりやすい表現を学習し、〈短歌らしいもの〉もとてもわかりやすものになるだろう。
……私が望むのはそうではない。歌人が、その個人の実体験の有無に拘泥せず、AIにはどうしても表現のできない喩的跳躍を為してみせることだ。その光景をこそ、私は見たい。
ただの歌には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者が作ったような歌を作ったら、あたしのところに送りなさい。以上。
と私が記したのはもう10何年も前だ(当然これは20年以上前にはじまった「涼宮ハルヒ」シリーズを踏まえている)。
せっかくAIが作ってくれた〈短歌のようなもの〉をどうか既存の短歌に近づけてくれるな。どうか既存の感性に近づけてくれるな。どうしようもない他者として、どうしようもなくわかりえない表現として受け止めて、それを面白がって、短歌定型に導いていただきたい。私(中島)は、前述したような〈宇宙人、未来人、異世界人、超能力者が作ったような歌〉をずっと切望している。
(文・中島裕介)