こんにちは、efといいます。
深水英一郎氏が主宰している短歌技術研究空間でLLMと短歌のかかわりを追求していて、これまでLLMをはじめとする生成AIを短歌に応用する試みについて記事をいくつか書かせていただいています。また、毎月短歌のLLM評の生成も担当しています。
このたび、短歌技術研究空間で実施した企画からスピンアウトして、募集した「お題」と「短歌のたね」からLLMが短歌を生成し、それを「改作」した短歌を投稿することでAIと人間が共同で短歌を創作する企画を実施しました。この企画において、わたしがこのようにAIと短歌のかかわりを考えるそもそものきっかけとなった評論を著された中島裕介氏と共通の場で短歌に関われたこと、たいへん光栄に思っております。
本企画において、わたしはLLMによる「短歌のようなもの」の生成など技術面のみのサポートで、選評は中島氏にしていただければと当初思っていたのですが、深水氏から機会をいただきまして、投稿作についての選評も担当させていただくことになりました。
選ばれることのうれしさも選ばれないことのつらさもそれなりに経験してきた中で、わたしが選評する立場に立った時に、わたしにしかできない選評の在り方はどのようなものだろうか、ということを考えました。
そしてそれは、やはりAIを使ったものになるだろうと考えました。そこで、今回の企画に投稿いただき、投稿内容の公開許可1をいただいたかたの作品のなかからお一人当たり1首を選び、それぞれについてCommand R+というLLMを用いた評を生成しました。生成にあたって、プロンプト(LLMへの命令文)は以下のように設定しました。
<BOS_TOKEN> <|START_OF_TURN_TOKEN|><|SYSTEM_TOKEN|> あなたは短歌の評論家で、短歌を評価するにあたって以下のような価値基準を持っています。 「評価にあたっては、間違った解釈をすることを恐れずなるべく想像力を働かせて深読みを心がける」 あなたはこの価値基準のもとに応募されてきた短歌を評価する仕事をしています。 <|END_OF_TURN_TOKEN|> <|START_OF_TURN_TOKEN|><|USER_TOKEN|> 以下は、「{お題}」というテーマで「{LLMが出力した文字列}」というLLMが出力した文字列を改作した短歌です。作者は{作者名}さんです。 {投稿短歌} この短歌について、用いられている表現や内容について詳細に評価した文章を出力してください。<|END_OF_TURN_TOKEN|> <|START_OF_TURN_TOKEN|><|CHATBOT_TOKEN|> わかりました。テーマが「{お題}」であり、「{LLMが出力した文字列}」という文字列を改作したものであることをふまえて、{作者名}さんの短歌「{投稿短歌}」について評価した文章を出力します。
なお、投稿短歌のうち、どのLLMからの文を改作したものかを判別できなかったものは、わたしが独断で最も近いと判断したものを上記の{LLMが出力した文字列}に指定しています。以下の結果をご覧いただければわかりますが、Command R+自身はLLMの改作であることをあまり意識しなかったようで、この措置の影響はほとんどなかったと考えています。
efが選した短歌をCommand R+が評した短歌の一覧は以下のリンク先のスプレッドシートから確認できます。
そして、わたしが選をおこない、Command R+が評した短歌のなかから、LLMと短歌の関わり方を探っている立場から注目できる点があった以下3首について、コメントを付けさせていただきました。
新世界望遠鏡で覗くよに片眼に当てる卒業証書/虚見津山都
改作元:卒業証書を片手に涙浮かべ歩む先に広がる新世界を思って。
お題:卒業
卒業証書の筒を望遠鏡に「見立てる」ことは一度は考えたことがあると思うが、LLMはこの「見立て」を理解できていないように思う。
このような、言語表現を取り巻く身体性や物理性についてLLMはどの程度理解しているのだろうか、より理解を深めた文章を出力させるためにはどうすればいいだろうか、ということをよく考える。
穂村弘氏に「体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ」という有名な作品があるが、このうたは身体性に根差して発音が変化したことを表現しているところに面白さがある。同様に、この短歌で取り上げられている「卒業証書の筒」は卒業という義務教育における共通体験に根差しており、人間の読み手にとって共感を覚えやすい表現だと思う。
LLMに身体はないが、だからといって身体性を理解・表現できないとは限らない。身体性を取り巻く言葉を学習し続ければ、そこから描き出される言葉の外の身体性や物理性をエミュレートすることは必ずしも不可能ではないと考える。今後のLLMの性能向上で、こうしたところを拾い上げるモデルが出てくることに期待したい。
卒業証書を望遠鏡に見立てるというLLMが取りこぼしそうな要素を含んでいる点が、AIと人間の共創という本企画のテーマによく合致した改作だと感じた。
花ぐはし一本桜のもとつどふ童べのこゑ千代に八千代に/碧乃そら
改作元:風を運ぶ花の香の野に遊びしに子も孫もその先の代まで
お題:春
枕詞「花ぐわし」が用いられている。この企画のもととなった短歌技術研究空間の企画でも、LLMが生成したうたから枕詞を含んだうたを「改作」したものがあった。
LLMの短歌評を眺めていて思うのは、LLMは短歌の表現を逐語的に拾って解釈することは得意だが、短歌全体の構成や、短歌ならではの表現技法について理解する能力は低いということだ。
たとえば枕詞や掛詞を使ったうたを入力した場合も、それらの表現技法を拾い上げて評価してくれることはほとんどない。また、文字数や音数についての理解は壊滅的で、定型でないうたを定型と言ったり、その逆だったりする。あまりにトンチンカンな評価ばかりするので、毎月短歌でkarakuri-lmというLLMを用いて評をするときには、評価文に「リズム」とか「定型」というワードが含まれている場合は自動で再生成を命じている。
ちなみにLLMは「枕詞」を知らないわけではないらしい。実際に、Command R+に枕詞について尋ねてみたら、以下のような文章を返してきた。
枕詞(まくらことば)とは、短歌や和歌において使われる修辞法の一種です。多くは五音節で構成され、特定の言葉の前に置かれ、語調を整えたり、情緒を添える働きをします。 例えば、
> あしひきの やまどりのをの しだりをの ながながしよを ひとりかもねん
という和歌では、冒頭の「あしひきの」が枕詞です。
この枕詞は「山」という言葉を導き出すために使われており、意味的には修飾語のような役割を果たしています。
枕詞は特定の言葉と結びついて使われることが多く、平安時代以降はその歌の意味に直接関係しないことが一般的です。
和歌の初句だけでなく、第三句に置かれることもあります。
このように、短歌や和歌についての知識は有しているようだが、このうたの「花ぐわし」については拾わなかったようだ。「拾えなかった」のか、「拾わなかった」のかは不明。
短歌に特化したLLMはいつか作りたいと思いながらも、31文字のリズムを理解し、また枕詞や縁語、掛詞といった短歌の修辞に精通したLLMを作るには、どのようなデータを用意して、どう学習させればいいだろうか?ということを思いあぐねている。
LLMの改作としては、改作元の「景」を維持しつつ、短歌ならではの表現技法を盛り込むことで「人間がよむ」ことの要素を持たせることに成功した作品であるように思う。
伯父伯母が木々のよに立つ病室で父は眠ったあの仔を遺して/ぺぺいん
改作元:病室で見上げれば天窓に揺らぐ木々そよいで父は眠りゆく
お題:父
作者は父親が逝去された際の思い出を短歌にされたそうで、後に遺された猫のエピソードを詠み込むことで、個別性を短歌に付与している。
「父」というテーマと、作者が投稿された「短歌のたね」をもとにLLMが生成した「短歌のようなもの」は、「父」というお題に即した文字列を出力せよ、という要求は満たしているように見える。
だが、これをそのまま短歌というにはやや平板すぎるように感じてしまうし、そもそも定型やリズムは守れていない。そこに、父の死にまつわる「わたしだけ」の思い出を盛り込んだ改作を行うことで、そのうたに固有のイメージをまとわせている。
LLMが生成したものを「人間の短歌」にするときに、個人のエピソードを盛り込むという方法を採った作品はこのうたも含めていくつかあった。毎月短歌のLLM評では作者コメントも読みこむということをやっていて、そうしたエピソードを含むコメントがあれば、LLMはそれも踏まえた文章を出力するのだと思う。
ただ、今回は入力が「お題」と「短歌のたね」に限られていて、さらに短歌という限定されたフォーマットでの出力をLLMに命じたので、そこで拾い切れなかったところはあるのかな、というように感じている。LLMにより細やかに情景を詠ませることは可能なのか?ということについても、今後探っていきたい。
AIと人間の共創について思うこと
この企画に投稿された短歌は、投稿者が設定した「お題」と「短歌のたね」をもとにLLMが「短歌のようなもの」を生成し、そこにさらに人間が手を加えることによって生まれた「短歌」である。私の選評では、LLMが文字列を解釈し生成する過程で取りこぼしがちな要素や、あるいは人間だからこそ付け加えることのできる要素を見出すことができた短歌に注目した。
生成AIはさまざまな創作の分野に応用されつつある。生成AIは「絵筆」のような道具としてこれからのさまざまな創作のなかに取り込まれていくと思う。では、文芸という分野、特に短歌の創作において、AIはどのように活用することができるだろうか?
今回の企画では、人間とAIの共創の在り方を探る試行として、このような手法を取った。このような形で生み出された短歌に、わたしたちがどのような「価値」を見出すことができるだろうか?また「AIにしかよめない」短歌や、「人間とAIの共創によってはじめてよめる」短歌があるとすれば、それはどのようなものだろうか?
LLMが学習する言語空間の広がりはもう一人の人間が一生で扱える量をとうに超えていて、それは複数の言語にまたがっている。たとえば日本語以外の言語を盛り込んだ表現であっても、その単語がLLMのなかに取り込まれていれば、それをふまえたコメントを出力してくれる。
LLMが学習している膨大な言葉のなかから「だれもまだ選び取ったことがないかたち」で文章を出力させることは、実はそんなに難しくない。実際、文字列を綴る際に次にくる言葉の幅を広げることが可能なパラメータ(temperature)が存在する。だが、temperatureを上げたら「良い」文章を出力できるようになるかというと、そういうわけではない。
人間で例えるなら、酔っ払って文章を書いたり深夜に勢いで創作をやったりすることに近い。そうした経験があるひとならよくわかると思うが、あくまで筆が乗ったというだけでは、必ずしも面白いものはできないのと同様である。
言葉の連なりの「意外性」を上げることは、その作品の「良さ」には直結しない。だが、数を打つということについてはLLMは最も秀でているように思う。LLMは文章生成に飽きることは決してない。今回はひとりあたり「短歌のようなもの」10首を生成したが、時間さえかければこれを100でも1000でも作ることは難しくない。
誰かの歌に手を入れるということは、もしひとが詠んだ短歌であればその人と相当の信頼関係がなければ難しいことかもしれないが、LLMが相手であればそうしたことは一切気にしなくてもいい。LLMに「改作元」を大量に生成させて、そこに自分なりのアレンジを加えることに慣れてくれば、短歌をそれまでの人間には到底できなかった規模で創作することが可能になるのかもしれない。
以上、投稿いただいた作品のなかから、「人間にしかよめない」要素を強く感じさせてくれた短歌を選び、コメントさせていただきました。評というよりは投稿歌を基点とした自分語りになってしまった点は否めないですが……
どの投稿作品も、LLMがよんだ「景」をなるべく維持したり、逆に独自の解釈を付け加えて展開したりと、さまざまな工夫を感じることができて、とても楽しい経験をさせていただきました。
AIと短歌の関わりについては、気鋭の歌人・木下龍也氏と朝日新聞がコラボし、朝日新聞社が開発した「短歌AI」やChatGPTに短歌を詠ませて鑑賞する試み「木下龍也さん×AI短歌 あなたのために詠む短歌」が4/26に開催されています。
朝日新聞デジタル会員であれば5/3から配信を視聴できるそうで、私も申し込んだので試聴する予定です。どのような短歌が詠まれるのか、そしてAIが詠む短歌に木下氏はどのような感想を抱くのか、とても楽しみにしています。
また、深水氏主催の毎月短歌のLLM評は今後とも続けていく予定です。LLMに入力できる文字数の限界上、いまは単独作への投稿の評に限って公開していますが、もし今後連作について十分に評価可能なLLMが登場すれば、それらの評も実施、公開する予定です。
いまも新しいLLMが続々と登場していて、それらの短歌評の性能は随時評価をつづけています。新しい「AI評者」が加わる日も近いかもしれません。
自分の短歌がLLMにどのように解釈されるのか?ということに興味のある方は、コトバディアのwebフォームから投稿いただければと思います。
お題と「短歌のたね」を投稿し、LLMに「短歌のようなもの」を生成させてみたが、「自分自身で短歌をつくること」のこだわりにあらためて気が付き、公表は希望されないかたもいらっしゃいました。どのような形であれ、本企画を自身の創作についてのこだわりを発見するきっかけにしていただけたことは望外の喜びです。