文語カテゴリ、人間選者 髙良真実さんの選評原稿を預かりましたので、発表いたします。
選評の前に
投稿歌壇における選者の役割は歌を選出することです。選者は何らかの規準を持っていて、投稿者の歌はその規準に適合するか否かが判定されます。選の仕組みは機械的です。
けれども、選ぶ・選ばれる関係において、選ぶ側には権威が発生します。規準は選者の秀歌観にすぎないはずでも、美には普遍性があるという観念のために、選出歌が普遍的な秀歌であると考えてしまう。また歌壇の秀歌観は共通しているという共同幻想のために、選者の判断は妥当なものだと考えてしまう。私はこの事象を警戒します。
秀歌観が共通しているという共同幻想は必要なものなので、それを過度に否定しようとは思いません。しかしながら、選の規準がブラックボックス化した状態で、それを無批判に受けいれるのは、ちょっと風通しが悪いと思います。
といっても選の規準は明言できるものではありません。なぜその歌を良いと思うのかについて言葉を尽くす他ないでしょう。良い悪いを判定するという意味で、私はこれから権威的な振る舞いをします。しかしながら投稿する立場から見ると、選者は歌を投げたらたまに感想を吐き出すマシン程度に思った方が、気軽に楽しめるかもしれない。投稿者の皆様に良い短歌ライフがありますように。同時に、その楽しみに少しでも貢献できればと思っています。
文語・自由詠
特選
冬のみづをぐつとふふめる甘藍のまろきにはつか手のしづみたり
- 敦田眞一
甘藍、つまりキャベツなんですが、ずっしりしていますよね。「ぐつとふふめる」によってその質感が伝わってきます。
たぶんキャベツの重さによって手がすこし沈んでしまった、という状況の描写だとは思いつつ、「手のしづみたり」だと、手がキャベツの中に沈んで行く様子を想起してしまいます。そっちの読みだと葉のついたキャベツになるんだろうか。しかし上句で呼び出したキャベツの重さが活きてこないのが厳しいところ。
キャベツの重さによって手が自然に沈んでしまった、という景を確定させるのであれば、主格の「の」の代わりに「は」を使うとか、使役にするとか、いくつか代替案が考えられます。
選外佳作
天に雪、地に塩、風の舞ふ墓場 いずれ心に花も降るらむ
- 祥
雪は降っている間は雪に見えて、まだらに地面に積もっていると塩に見えるということでしょうか。雪の降り始めにそうした様子は見覚えがあります。墓場に塩は撒かないですからね。
「風の舞ふ墓場」は荒涼とした心象風景を象徴していて、その対比として、いずれ気持ちも晴れるだろうと下句で祈っているものと読んでいます。
とはいえ、下句で希望を語るには、上句の景が哀しみ方面に尖っている気がしていて、下句の祈りによって上句の重さを消せている気はしません。また「いずれ」という未来の副詞に対して「らむ」という現在推量が繋がっているのは、積極的に歌の良さとして読みにくいところです。
両の手の中でしづかに潰れゆく思ひあるらむ祈りのときに
- 春永睦月
祈りの両義性を描いた歌ですね。「潰れゆく」なので、手を合せるだけでなく、指まで組んでいるタイプの祈り方として読みたくなります。
ただし、この歌のテーゼは祈りに際しての普遍的な事象として受け取りますが、「らむ」はむしろ「いま」を強調する助動詞です。結句で祈っている人や像とかを見ているのであれば時勢は合うんですけどね。このままの形だと、強調される時勢に疑問を覚えました。
文語・テーマ詠「地獄」
特選
該当作なし
選外佳作
沈みゆく鯨は報ひを受け入れて宴のやうに食はれてをりぬ
-塩本抄
鯨骨生物群集は確かに地獄感ありますね。詠みたくなる気持ちがとてもわかります。
とはいえ腑に落ちないのは「報ひを受け入れて」という部分です。これまで幾多の生物を食べてきた報いなのかなあ。それともそもそも畜生道の生き物だから、死後は地獄に落ちるということか……。なんだか鯨の罪を重くとらえすぎている気がします。
お題の力が強い題詠は総じて難しい傾向にありますね。
文語・2月自選
特選
該当作なし
選外佳作
「エレジーがある」といわれてしばらくはやや不審げに眺めた卵
- ef(エフ)
「英語では「アレルギー」とは発音しないらしい。」と詞書?(コメント)がついています。だとしてもどちらかと言えば「アレジー」では……。そこがおもしろいポイントで、卵アレルギーとエレジー(哀しみ)の音的な距離の近さが、おもしろみと哀しみ(ユーモアとペーソス)を醸し出しています。食べられる卵自体の哀しみも連想されます。文語の助動詞使われてないですが、このカテゴリに出していただいているので選出しました。
文語・連作
特選
該当作なし
選外佳作
檜山省吾「ほのかにかへす」
[連作作品]
ほのかにかへす 檜山省吾 やはらかに病窓へ入る陽のひかり瞼ほのかに照り返したり 悪しけくも善けくも見むといさみてはあなたこなたを漫ろ歩めり 吾が子よりロックされたる待ち受けを義賊のごとくいざ解かむとす 「孫の名をわすれてゐた」とうつぶせり灰汁色の床に西日影ろふ 疼痛を1〜10で記すべしとペインスケールは吾を強ひたり 知らずして幾本の糸に吊られしか如何にせむ此のうつそみの舞 すでに閉ぢぬまなこは闇の満ちをりて子らのこゑみな吸ふて答へず さざなみは足をさらひぬ出で立ちを里かへる友のごとおくりき うつくしきものなどなきと天高く挙げし手のひらほのかに青し はろばろと盲ひし樹々は浸りゐるいのち風なす葉擦れのさやぎを
闘病生活の風景を描いていると思われる連作です。描きたい対象を細かく捉えていく歌の作り方が良いと思いました。
とはいえ助詞助動詞の用法に疑問が多く、文法を外すことによる効果よりも、読みのストレスのほうが勝ってしまっている気がします。個別の歌に即して書くと以下の通り。
四首目:三句目「うつぶせり」は下二段活用に完了の「り」をつける近代の用法ですね。文法的には誤りと言われていますが、近代短歌だとしばしば見かけます。完了の異「り」や過去の「き」に代わって字余りでもいいので完了の「たり」が使われていると文語短歌としてもう少し自然な感じが出て来ると思います。
五首目:「吾を強ひたり」はコロケーションとして「を」ではなくて「に」が自然に思います。自分自身の客体性を強めたいのだろうとは感じられつつ、そうすると「強ひる」以外の語の選択肢があるような気もしてきます。
九首目:明石海人歌集『白描』の第二部「翳」などを思わせる幻視の感じがあります。二句目を「なき」と連体形にしたのはやや疑問があり、終止形の「なし」のような言い切りの形の方が私は好きです。
選評を終えて
あまり見ない文語の言い回しをちらほら見かけました。正誤のことはさておき、比較的通じる用法なのかは国立国会図書館のNgram Viewer1に投げてみると分かったりします。例えば「死ねり」は古典文法的に誤りでも(「死ぬ」は下二段活用なので)近代を通して広く使われていました。
リンク: https://lab.ndl.go.jp/ngramviewer/
前提として、日本語の書き言葉は平安期以降次第に話し言葉と乖離していき、近世書き言葉は初学者にとって習得コストの高いものになりました。それを解決するため、明治期は「普(あまね)く通じる」書き言葉として、近世までの書き言葉を簡略化した普通文が考案されます。いわゆる近代文語、近代書き言葉です。これは当時の現代語として運用されていました。与謝野晶子は大正初期に口語短歌を非難する際、「歌の用語に文章語を用いる」「文章語は現代語の一種」と書いていますけれど、この「文章語」というのが普通文です。この書き言葉は明治期から昭和初期の教科書にも採用されていました。
ところが、短歌の文語は明治の普通文から次第にずれていきます。例えば明治末の根岸派(正岡子規の系譜)は万葉集から語彙や助詞助動詞の用例を導入したり、『明星』から出発した白秋や晶子も、大御所になるにつれて古典の用例を短歌に取り入れるようになりました。簡略化したはずの普通文が短歌用にカスタマイズされていくわけです。もちろん全ての用例が採用されたわけではなく、短歌に馴染む用例だけが取捨選択されました。名詞はあんまり採用されなくて、助詞助動詞は取り込まれる傾向にあります。
そういうわけで近代以降の短歌に使われる上代語・中世語・中古語・近世語(まとめて古語)にはある程度傾向があります。
あまり近現代で見ない短歌の古語が使われていると、そこで悩む時間が入ります。そのそういった読みの負荷のかけ方のコントロールも、短歌を作る上では意識したいところだと思います。
以上です。
【髙良真実】
(編註:Ngram Viewerとは、時代ごとの指定した語の出現頻度を可視化してくれるサービス。国立国会図書館の当該サービスでは、230万件のデジタルテキスト化済資料の分析結果を返してくれる)