若山牧水(1885-1928)の第一歌集『海の声』を共有いたします。
青空文庫に収録いただこうと考えてデジタル化しましたが、青空文庫は現在更新停止しているとのこと。そのため今回、短歌マガジンのウェブサイトに短歌のパブリックドメイン作品を共有する『夕空文庫(ゆうぞらぶんこ)』という場をつくり、そこで公開させていただく形としました。研究や学習に活用ください。(夕空文庫の活動にご興味ある方は主宰までDMでご連絡ください)
『海の声』 若山牧水
[初版出版:1908年7月]
序 昨にして歓楽の夢すでにすくなかりし身の今におよびて哀愁のいたみ更に切なるを覚ゆ古人の多情練漉すでに低摧すといへるは或はかくの如きを歌へるなるべしされどなほその人はそれに次ぐに独寒村に倚つて野梅を嗅ぐの句を以てせり余や日として走らざるなく時として息ふこと能はずみづから憂へみづから苦しみてしかもつひにわが安んずべきところを知らずあゝ喜を見ていよ/\よろこび悲にあひてまたます/\よろこぶわが牧水君の今の時は幸なるかな羨むべきかな おもほえず昨日われ射しわかき日のひかりを君がうへに見むとは きみがよぶこゑにおどろきながめやる老てふ道のさてもさびしき 君によりてまたかへりふむわかき道花はきのふの紅にして 柴舟生
序
われは海の声を愛す。潮青かるが見ゆるもよし見えざるもまたあしからじ、遠くちかく、断えみたえずみ、その無限の声の不安おほきわが胸にかよふとき、われはげに云ひがたき悲哀と慰籍とを覚えずんばあらず。 こころせまりて歌うたふ時、また斯のおもひの湧きいでて耐へがたきを覚ゆ。かかる時ぞ、わがこころ最も明らかにまた温かにすべてのものにむかひて馳せゆきこの天地の間に介在せるわが影の甚しく確乎たるを感ず。まこと、われらがうら若の胸の海ほど世にも清らにまた時おかず波うてるはあらざるべし、そのとどめがたきこころのふるへを歌ひでてわれとわがおもひをほしいままにし、かつそのまま尽くるなき思ひ出の甕にひめおかむこと、げにわれらがほこりにしてまた限りなきよろこびならずとせむや。 われ幼きより歌をうたひぬ、されども詩歌としてゆるさるべき秀れしもの殆どいまだあることなし、ここには比較的ととのひそめし明治三十九年あたりの作より今日に至るまでのもの四百幾十首を自ら選みいでて輯めたり、選むには巧みなると否とを旨とせず、好きすかずを先にしたり、要はただ純みたるわが影を表はさむとしてに外ならず。表紙画は平福百穂氏の厚意に成れり、多忙のうちわがために労をさかれし氏に対して深く感謝の意を表す。 明治四十一年五月
われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ 真昼日のひかり青きに燃えさかる炎《ほのほ》か哀《かな》しわが若さ燃ゆ 海哀《かな》し山またかなし酔ひ痴れし恋のひとみにあめつちもなし 風わたる見よ初夏のあを空を青葉がうへをやよ恋人よ 空《そら》の日に浸《し》みかも響く青々と海鳴るあはれ青き海鳴る 海を見て世にみなし児《ご》のわが性《さが》は涙わりなしほほゑみて泣く 白鳥《しらとり》は哀《かな》しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ あな寂し縛《いまし》められて黙然《もくねん》と立てる巨人《きよじん》の石彫《きざ》まばや 海断えず嘆くか永久《とは》にさめやらぬ汝《なれ》みづからの夢をいだきて 闇の夜の浪うちぎはの明るきにうづくまりゐて蒼海《おほうみ》を見る わが胸ゆ海のこころにわが胸に海のこころゆあはれ絲鳴る わがまへに海よこたはり日に光るこの倦みし胸何にをののく 戸な引きそ戸《と》の面《も》は今しゆく春のかなしさ満てり来よ何か泣く みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ 蒼穹《おほぞら》の雲はもながるわだつみのうしほは流るわれ茫と立つ 夜半《よは》の海汝《な》はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が声を聴く われ寂《さび》し火を噴《ふ》く山に一瞬《ひととき》のけむり断えにし秋の日に似て 闇冷《ひ》えぬいやがうへにも砂冷えぬ渚に臥して黒き海聴く あなつひに啼くか鴎よ静けさの権化《ごんげ》と青の空にうかびて [#鴎は旧字] 狂ひ鳥はてなき青の大空《おほぞら》に狂へるを見よくるへる女 おもひみよ青海《あをうみ》なせるさびしさにつつまれゐつつ恋ひ燃ゆる身を 君来《こ》ずばこがれてこよひわれ死なむ明日《あす》は明後日《あさて》は誰知らむ日ぞ 泣きながら死にて去《い》にけりおん胸に顔うづめつつ怨みゐし子は われ憎む君よ真昼の神のまへ燭《ひ》ともすほどの《らう》たき人を 然《さ》なり先づ春消えのこる松が枝の白の深雪《みゆき》の君とたたへむ 玉ひかる純白《ましろ》の小鳥たえだえに胸に羽《はね》うつ寂しき真昼 黒髪のかをり沈むやわが胸に血ぞ湧く創《きず》ゆしみ出《づ》るごとく 春や白昼《ひる》日はうららかに額《ぬか》にさす涙ながして海あふぐ子の(以下四十九首安房にて) 声あげてわれ泣く海の濃《こ》みどりの底に声ゆけつれなき耳に わだつみの白昼《ひる》のうしほの濃みどりに額《ぬか》うちひたし君恋ひ泣かむ 忍びかに白鳥啼けりあまりにも凪ぎはてし海を怨ずるがごと わがこころ海に吸はれぬ海すひぬそのたたかひに瞳《め》は燃ゆるかな われまよふ照る日の海に中ぞらにこころねむれる君が乳《ち》の辺《へ》に 眼をとぢつ君樹によりて海を聴くその遠き音になにのひそむや ああ接吻《くちづけ》海そのままに日は行かず鳥翔《ま》ひながら死《う》せ果てよいま 接吻《くちづ》くるわれらがまへに涯《はて》もなう海ひらけたり神よいづこに 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇《くち》を君 松透きて海見ゆる窓のまひる日にやすらに睡る人の髪吸ふ ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ 君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ ふと袖に見いでし人の落髪《おちがみ》を唇にあてつつ朝の海見る ひもすがら断えなく窓に海ひびく何につかれて君われに倚る 誰《た》ぞ誰《た》ぞ誰《た》ぞわがこころ鼓《う》つ春の日の更けゆく海の琴にあはせて 夕海に鳥啼く闇のかなしきにわれら手とりぬあはれまた啼く 鳥白しなにぞあれ行くわれ離《さか》りゆふべ明《あか》るき海のあなたへ 夕やみの磯に火を焚く海にまよふかなしみどもよいざよりて来よ 海明《うみあか》り天《そら》にえ行かず陸《くが》に来ず闇のそこひに青うふるへり うす雲はしづかに流れ日のひかり鈍める白昼《ひる》の海の白さよ 真昼時《まひるどき》青海死にぬ巌《いは》かげにちさき貝あり妻《め》をあさり行く 海の声そらにまよへり春の日のその声のなかに白鳥の浮く 海あをし青一しづく日の瞳《まみ》に点じて春のそら匂はせむ 春のそら白鳥まへり觜紅《はしあか》しついばみてみよ海のみどりを 白き鳥ちからなげにも春の日の海をかけれり君よ何おもふ 無限《むげん》また不断《ふだん》の変化《へんげ》持つ海におどろきしかや可愛ゆをみなよ 春の海ほのかにふるふ額伏《ぬかふ》せて泣く夜のさまの誰が髪に似る 幾千の白羽みだれぬあさ風にみどりの海へ日の大ぞらへ いづくにか少女《をとめ》泣くらむその眸《まみ》のうれひ湛えて春の海凪ぐ 海なつかし君等みどりのこのそこにともに来ずやといふに似て凪ぐ 手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海の無限の岸に 春の海のみどりうるみぬあめつちに君が髪の香満ちわたる見ゆ 御《み》ひとみは海にむかへり相むかふわれは夢かも御ひとみを見る わが若き双《さう》のひとみは八百潮のみどり直《ひた》吸ひ尚ほ飽かず燃ゆ しとしとと潮の匂ひのしたたれり君くろ髪に海の瓊《に》をさす 君笑めば海はにほへり春の日の八百潮どもはうちひそみつつ 春の河うす黄に濁り音もなう潮満つる海の朝凪に入る 暴風雨《しけ》あとの磯に日は冴ゆなにものに驚かされて犬永う鳴く 白昼《ひる》の海古《ふる》びし青き糸のごとたえだえ響く寂しき胸に 伏目《ふしめ》して君は海見る夕闇のうす青の香に髪のぬれずや 日は海に落ちゆく君よいかなれば欺くは悲しきいざや祷らむ [#祷は旧字] 白昼《ひる》さびし木《こ》の間《ま》に海の光る見て真白《ましろ》き君が額《ぬか》のうれひよ くちづけは永かりしかなあめつちにかへり来てまた黒髪を見る 夕ぐれの海の愁ひのしたたりに浸《ひた》されて瞳《め》は遠き沖見る 蒼《あを》ざめし額《ひたひ》にせまるわだつみのみどりの針に似たる匂ひよ 柑子《かうじ》やや夏に倦みぬるうすいろに海は濁れり夕疾風《ゆふはやち》凪ぐ 海荒れて大空の日はすさみたり海女《あま》巌かげに何の貝とる 春の海さして船行く山かげの名もなき港昼の鐘鳴る 朱の色の大鳥あまた浮きいでよいま晩春《ゆくはる》の日は空に饐《す》ゆ 山を見き君よ添寝《そひね》の夢のうちに寂しかりけり見も知らぬ山 春の雲しづかにゆけりわがこころ静かに泣けり何をおもふや 悲し悲し何かかなしきそは知らず人よ何笑むわがかたを見て わが胸の底の悲しみ誰知らむただ高笑ひ空《くう》なるを聞け 悲哀《かなしみ》よいでわれを刺せ汝《な》がままにわれ刺しも得ばいで千々に刺せ われ敢て手もうごかさず寂然《じやくねん》とよこたはりゐむ燃えよ悲しみ かなしみは湿《しめ》れる炎《ほのほ》声もなうぢぢと身を焼くやき果てはせで 雲見れば雲に木見れば木に草にあな悲しみの水の火は燃ゆ ああ悲哀《かなしみ》せまれば胸は地はそらは一色《ひといろ》に透く何等影無し 泣きはててまた泣きも得ぬ瞳《め》の闇の重さよ切《せち》に火のみだれ喚《よ》ぶ 掟てられて人てふものの為すべきをなしつつあるに何のもだえぞ 馴れ馴れていつはり来《き》にしわが影を美しみつつ今日《けふ》をつぐかな あれ行くよ何の悲しみ何の悔ひ犬にあるべき尾をふりて行く 天の日に向ひて立つにたへがたしいつはりにのみ満ちみてる胸 もの見れば焼かむとぞおもふもの見れば消《け》なむとぞ思ふ弱き性《さが》かな 天《そら》あふぎ雲を見ぬ日は胸ひろししかはあれども淋しからずや ただ一路《いちろ》風飄としてそらを行くちひさき雲らむらがりてゆく 地のうへに生《い》けるものみな死にはてよわれただ一人日を仰ぎ見む 見てあれば一葉《ひとは》先づ落ちまた落ちぬ何おもふとや夕日の大樹《おほき》 木の蔭や悲しさに吹く笛の音《ね》はさやるものなし野にそらに行く 樹に倚りて頬《ほゝ》をよすればほのかにも頬に脈うつ秋木立かな [#頬は旧字] 山はみな頭《かうべ》を垂《た》れぬ落日のしじまのなかに海簫をふく ほうほうと汽笛《きてき》はさけぶをちこちにああ都会《まち》よ見よ今日もまた暮れぬ 青の海そのひびき断ち一瞬《いつしゆん》の沈黙《しじま》を守れ日の声聴かむ 人といふものあり海の真蒼《まさを》なる底にくぐりて魚《な》をとりて食《は》む 海の声たえむとしてはまた起る地に人は生《あ》れまた人を生《う》む [#起は旧字] 西の国ひがしの国の帆柱は港に入りぬ黙然《もくねん》として 海の上の老いし旅びと帆柱はけふも海行く西風《にし》冴えて吹く 静けさや悲しきかぎり思ひ倦《う》じ対《むか》へる山の秋の日のいろ 秋の風木立にすさぶ木のなかの家の灯かげにわが脈《みやく》はうつ つとわれら黙《もだ》しぬ灯かげ黒かみのみどりは匂ふ風過ぎて行く われらややに頭《かうべ》をたれぬ胸二つ何をか思ふ夜風《よかぜ》遠く吹く 風消えぬ吾《あ》もほほゑみぬ小夜《さよ》の風聴きゐし君のほほゑむを見て つと過ぎぬすぎて声なし夜《よる》の風いまか静かに木の葉ちるらむ 風凪ぎぬつかれて樹々《きゞ》の凪ぎしづむ夜《よ》を見よ少女《をとめ》さびしからずや 風凪ぎぬ松と落葉の木の叢《むら》のなかなるわが家《や》いざ君よ寝《ね》む 山恋しその山すその秋の樹の樹《こ》の間を縫へる青き水はた 青海の底の寂しさ去《い》にし日の古《ふる》びし恋の影恋ひわたる 街の声うしろに和《なご》むわれらいま潮《しほ》さす河の春の夜を見る 春の海の静けさ棲めり君とわがとる掌《て》のなかに灯の街を行く はらはらに桜みだれて散り散れり見ゐつつ何のおもひ湧かぬ日 蛙鳴く耳をたつればみんなみにいなまた西に雲白き昼 朝地震《なゐ》す空はかすかに嵐して一山《いちざん》白き山ざくらかな 雪暗うわが家つつみぬ赤々《あかあか》の炭火《すみび》をなかに君が髪見る 鳥は籠君は柱にしめやかに夕日を浴びぬなど啼かぬ鳥 煙たつ野ずえの空へ野樹《のぎ》いまだ芽ふかぬ春のうるめるそらへ 春の夜や誰ぞまだ寝《いね》ぬ厨《くりや》なる甕《かめ》に水さす音《ね》のしめやかに 仰ぎ見る瞳しづけし春更くるかの大ぞらの胸さわぐさま 白昼哀《まひるかな》し海のみどりのぬれ髪にまつはりゐつつ匂ふ寂静《しゞま》よ 秋立ちぬわれを泣かせて泣き死なす石とつれなき人恋しけれ 真昼日のひかりのなかに蝋《らふ》の燭《ひ》のゆらげるほどぞなほ恋ひ残る [#蝋は旧字] この家は男ばかりの添寝《そひね》ぞとさやさや風の樹に鳴る夜なり 春たてば秋さる見ればものごとに驚きやまぬ瞳《め》の若さかな わが若き胸は白壺《しらつぼ》さみどりの波たちやすき水たたえつつ うら若き青八千草の胸の野は日《ひ》の香《か》さびしみ百鳥《もゝとり》を呼ぶ 若き身は日を見月を見いそいそと明日《あす》に行くなりその足どりよ 月光《げつくわう》の青のうしほのなかに浮きいや遠ざかり白鷺の啼く 片ぞらに雲はあつまり片空に月冴ゆ野分《のわき》地にながれたり 十五夜の月は生絹《きぎぬ》の被衣《かつぎ》して男をみなの寝し国をゆく 白昼《ひる》のごと戸《と》の面《も》は月の明う照るここは灯《ひ》の国《くに》君とぬるなり 君睡《ぬ》れば灯の照るかぎりしづやかに夜は匂ふなりたちばなの花 寝すがたはねたし起すもまたつらしとつおいつして蟲を聴くかな [#起は旧字] ふと蟲の鳴く音《ね》たゆれば驚きて君見る君は美しう睡《ぬ》る 君ぬるや枕のうへに摘《つ》まれ来《こ》し秋の花ぞと灯は匂《にほ》やかに 美しうねむれる人にむかひゐてふと夜ぞかなし戸に月や見む 月の夜や君つつましうねてさめず戸の面の木立風真白《ましろ》なり 短かりし一夜なりしか長かりし一夜なりしか先づ君よいへ 静けさや君が裁縫《しごと》の手をとめて菊見るさまをふと思ふとき 机のうへ植木の鉢の黒土《くろつち》に萌えいづる芽あり秋の夜の灯よ 春の樹の紫じめる濃き影を障子《さうじ》にながめ思ふこともなし つかれぬる鈍き瞳をひらきては見るともなしに何もとむとや 君もまた一人かあはれ恋ひ恋ふるかなしきなかに生《い》けるひとりか 春の森青き幹ひくのこぎりの音《おと》と木の香と籔うぐひすと ぬれ衣のなき名をひとにうたはれて美しう居るうら寂しさよ 母恋しかかる夕べのふるさとの桜咲くらむ山の姿よ 春は来ぬ老いにし父の御《み》ひとみに白ううつらむ山ざくら花 父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花 町はづれきたなき溝《どぶ》の匂ひ出《づ》るたそがれ時をみそさざい啼く 恋さめぬあした日は出でゆふべ月からくりに似て世はめぐるかな 青き玉さやかに透きて春の夜の灯《ひ》を吸へる見よ凉しき瞳 火事あとの黒木のみだれ泥水の乱れしうへの赤蜻蛉《あかとんぼ》かな 帆のうなり濤の音《おと》こそ身には湧けああさやなれや十月の雲 人どよむ春の街ゆきふとおもふふるさとの海の鴎啼く声 [#鴎は旧字] 山ざくら花のつぼみの花となる間《あひ》のいのちの恋もせしかな 海の声山の声みな碧瑠璃《へきるり》の天《そら》に沈みて秋照る日なり 君は知らじ君の馴寄《なよ》るを忌むごときはかなごころのうらさびしさを うら恋しさやかに恋とならぬまに別れて遠きさまざまの人 阿蘇の街道《みち》大津の宿《しゆく》に別れつる役者《やくしや》の髪の山ざくら花 月光《げつくわう》のうす青じめる有明《ありあけ》の木の原つづき啼く鶉かな 秋の海かすかにひびく君もわれも無き世に似たる狭霧《さぎり》白き日 酒の香の恋しき日なり常磐樹《ときはぎ》に秋のひかりをうち眺めつつ おもひやる番《ばん》の御寺《みてら》の寺々《てらでら》に鐘《かね》冴えゆかむこのごろの秋 秋の灯や壁にかかれる古帽子《ふるばうし》袴のさまも身にしむ夜なり 野分すぎ労れし空の静けさに心凪ぎゐぬ別れし日ごろ 秋の夜やこよひは君の薄化粧《うすげはひ》さびしきほどに静かなるかな 君去《い》にてものの小本のちらばれるうへにしづけき秋の灯《ともし》よ いと遠き笛を聴くがにうなだれて秋の灯のまへものをこそおもへ 秋の雲柿と榛《はり》との樹々の間にうかべるを見て人も語らず 秋晴《あきばれ》や空にはたえず遠白き雲の生れて風ある日なり 月の夜や裸形《らぎよう》の女そらに舞ひ地《つち》に影せぬ静けさおもふ 秋の雨木々にふりゐぬ身じまひのわろき寝ざめのはづかしきかな 秋あさし海ゆく雲の夕照りに背戸《せど》の竹の葉うす明りする 君が背戸《せど》や暗《やみ》よりいでてほの白み月のなかなる花月見草 白桔梗君とあゆみし初秋の林の雲の静けさに似て 思ひ出《づ》れば秋咲く木々《きぎ》の花に似てこころ香《かを》りぬ別れ来《こ》し日や 秋風は木の間に流る一しきり桔梗色してやがて暮るる雲 別れ来て船にのぼれば旅人のひとりとなりぬ初秋の海 啼きもせぬ白羽《しらは》の鳥よ河口《かはぐち》は赤う濁りて時雨《しぐれ》晴れし日 日向の国むら立つ山のひと山に住む母恋し秋晴《あきばれ》の日や うつろなる秋のあめつち白日《はくじつ》のうつろの光ひたあふれつつ 秋真昼青きひかりにただよへる木立がくれの家に雲見る うすみどりうすき羽根《はね》着るささ蟲の身がまへすあはれ鳴きいづるらむ 日は寂し万樹《ばんじゅ》の落葉はらはらに空の沈黙《しゞま》をうちそそれども 見よ秋の日のもと木草《きぐさ》ひそまりていま凋落《てうらく》の黄《き》を浴《あ》びむとす 海の上《へ》の空は真蒼《まさを》に陸《くが》の上の山に雲居り日は帆のうへに むらむらと中ぞら掩ふ阿蘇山のけむりのなかに沁む秋の日よ 虚《うろ》の海暗きみどりの高ぞらのしじまの底に消ゆる雲おもふ 落日や街《まち》の塔の上金色《こんじき》に光れど鐘はなほ鳴りいでず 日が歩《あゆ》むかの弓形《ゆみなり》の蒼空《あをぞら》の青ひとすぢのみち高きかな 落葉焚《た》くあをきけむりはほそほそと木の間を縫ひて夕空へ行く 悲しさのあふるるままに秋のそら日のいろに似る笛吹きいでむ 富士よゆるせ今宵《こよひ》は何の故もなう涙はてなし汝《なれ》を仰ぎて 凪ぎし日や虚《うろ》の御そらにゆめのごと雲はうまれて富士恋ひて行く 雲らみな東の海に吹きよせて富士に風冴ゆ夕映《ゆふばえ》のそら 雲はいま富士の高ねをはなれたり裾野の草に立つ野分かな 赤々と富士火を上げよ日光《につくわう》の冷えゆく秋の沈黙《しゞま》のそらに 山茶花は咲きぬこぼれぬ逢ふを欲《ほ》りまたほりもせず日経ぬ月経ぬ 遠山の峯《を》の上《へ》にきゆるゆく春の落日《らくじつ》のごと恋ひ死にも得ば 黒かみはややみどりにも見ゆるかな灯にそがひ泣く秋の夜のひと 立ちもせばやがて地にひく黒髪を白もとゆひに結《ゆ》ひあげもせで 君さらに笑みてものいふ御頬《みほ》の上《へ》にながるる涙そのままにして 涙もつ瞳つぶらに見はりつつ君かなしきをなお語るかな 朝寒や萩に照る日をなつかしみ照らされに出し黒かみのひと 遠白《とほしろ》うちひさき雲のいざよへり松の山なる桜のうへを 水の音《ね》に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる深山《みやま》の昼を なにとなきさびしさ覚え山ざくら花ちるかげに日を仰ぎ見る 怨みあまり切らむと云ひしくろ髪に白躑躅《しろつゝじ》さすゆく春のひと 忍草《しのぶぐさ》雨しずかなりかかる夜はつれなき人をよく泣かせつる 山ふかし水あさぎなるあけぼのの空をながるる木の香《かをり》かな 君恋し葵の花の香《か》にいでてほのかに匂ふ夕月のころ 《こほろぎ》や寝ものがたりの折り折りに涙もまじるふるさとの家 [#《こほろぎ》は機種依存文字。むしへんにくるま] さらばとてさと見合せし額髪《ぬかがみ》のかげなる瞳えは忘れめや(二首秀嬢との別れに) 別れてしそのたまゆらよ虚《うつろ》なる双《もろ》のひとみに秋の日を見る 鍬をあげまた鍬おろしこつこつと秋の地を掘る農人《のうにん》どもよ 酒倉《さかぐら》の白壁つづく大浪華こひしや秋の風冴えて吹く まだ啼かず片羽《かたば》赤らみかつ黒み夕日のそらを行く鳥のあり 窓ちかき秋の樹の間に遠白き雲の見え来《き》て寂しき日なり 胸さびし仰げば瑠璃《るり》の高ぞらにみどりの雨のまぼろしを見る 行きつくせば浪青やかにうねりゐぬ山ざくらなど咲きそめし町 山越えて空わたりゆく遠鳴《とほなり》の風ある日なり山ざくら花 君泣くか相むかひゐて言もなき春の灯かげのもの静けさに 相見ねば見む日をおもひ相見ては見ぬ日を憶《おも》ふさびしきこころ 海死せりいづくともなき遠き音《ね》の空にうごきて更けし春の日 相見ればあらぬかたのみうちまもり涙たたえしひとの瞳よ われはいま暮れなむとする雲を見る街は夕べの鐘しきりなり 船なりき春の夜なりき何処《いづこ》なりし旅の女と酌《く》みし杯 いつとなうわが肩の上《へ》にひとの手のかかれるがあり春の海見ゆ ふとしては君を避けつつただ一人泣くがうれしき日もまじるかな 世のつねのよもやまがたり何にさは涙さしぐむ灯のかげの人 わだつみのそこひもわかぬわが胸のなやみ知らむと啼くか春の鳥 笛ふけば世は一いろにわが胸のかなしみに染む死なむともよし 春来ては今年《ことし》も咲きぬなにといふ名ぞとも知らぬ背戸の山の樹 おもひ倦《う》じふと死を念《おも》ふ安心《うらやす》になみだ晴れたる虚《うろ》の瞳よ 雲ふたつ合はむとしてはまた遠く分《わか》れて消えぬ春の青ぞら うなだれて小野の樹に倚り深《ふか》みゆく春のゆふべをなつかしむかな 『木の香にや』『いな海ならむ樹間《こま》がくれ見たまへ其処《そこ》にうす青う見ゆ』 町はづれ煙筒《けむだし》もるる青煙《あをけむ》のにほい迷へる春木立かな 椎の樹の暮れゆく蔭の古軒の柱より見ゆ遠山を焼く 鶯のふと啼きやめばひとしきり風わたるなり青木が原を 春あさき海のひかりや幹かたき磯の木立のやや青むかな つかれぬる胸に照り来てほのかをるゆく春ごろの日のにほひかな 田のはづれ林のうへのゆく春の雲の静けさ蛙鳴くなり 眼とづればこころしづかに音《ね》をたてぬ雲遠見《とほみ》ゆる行く春のまど 植木屋は無口《むくち》のをとこ常磐樹の青き葉を刈る春の雨の日 初夏の照る日のもとの濃《こ》みどりのうら悲しさや合歓《ねむ》の花咲く 淋しくば悲しき歌を見せよとは死ねとやわれにやよつれな人《びと》 ゆく春の月のひかりのさみどりの遠《をち》をさまよふ悲しき声よ 淋しとや淋しきかぎりはてもなうあゆませたまへ何もとむべき(人へかへし) いと幽《かす》けく濃青《こあを》の白日《ひる》の高ぞらに鳶啼くきこゆ死にゆくか地《つち》 一すぢの糸の白雪《しらゆき》富士の嶺《ね》に残るが哀《かな》し水無月《みなつき》の天《そら》 月光《げつくわう》の青きに燃ゆる身を裂きて蛇苺《へびいちご》なす血の湧くを見む 初夏の月のひかりのしたたりの一滴《ひとたま》恋し恋ひ燃ゆる身に 皐月たつ空は恋する胸に似む恋する人よいかに仰ぐや 狂ひつつ泣くと寝ざめのしめやけき涙いづれが君は悲しき しとしとと月は滴《したゝ》る思ひ倦じ亡骸《むくろ》のごともさまよへる身に かりそめに病めばただちに死をおもふはかなごこちのうれしき夕べ(四首病床にて) 死ぬ死なぬおもひ迫《せま》る日われと身にはじめて知りしわが命かな 日の御神氷《みかみこほり》のごとく冷えはてて空に朽ちむ日また生れ来《こ》む 夙《と》く窓押し皐月のそらのうす青を見せよ看護婦《みとりめ》胸せまり来《き》ぬ 人棲まで樹々のみ生ひしかみつ代《よ》のみどり照らせし日か天《そら》をゆく われ驚くかすかにふるふわだつみの青きを眺めわが脉搏《みやくはく》に わくら葉か青きが落ちぬ水無月の死しぬる白昼《ひる》の高樫の樹ゆ 鷺ぞ啼く皐月の朝の浅みどり揺れもせなくや鷺空《そら》に啼く 水ゆけり水のみぎはの竹なかに白鷺啼けり見そなはせ神 水無月や日は空《そら》に死し干乾《ひから》びし朱泥《しゆでい》のほのほ阿蘇静《しづ》に燃ゆ [#泥は旧字] 聳やげる皐月のそらの樹の梢《うれ》に幾すぢ青の糸ひくか風 酔ひはてぬわれと若さにわが恋にこころなにぞも然《し》かは悲しむ 旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり 思ひ出にたよりよかれとて 山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の灯《ともし》かな(百草山にて) 立川の駅《ゑき》の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ 旅人は伏目《ふしめ》にすぐる町はづれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな(日野にて) 家につづく有明《ありあけ》白き萱原《かやはら》に露さはなれや鶉しば啼く あぶら灯やすすき野はしる雨汽車にほほけし顔の十あまりかな 戸をくれば朝寝《あさい》の人の黒かみに霧ながれよる松なかの家(以下三首御嶽にて) 霧ふるや細目《ほそめ》にあけし障子《さうじ》よりほの白き秋の世の見ゆるかな 霧白ししとしと落つる竹の葉の露ひねもすや月となりにけり 野の坂の春の木立の葉がくれに古き宿《しゆく》見ゆ武蔵の青梅《あうめ》 なつかしき春の山かな山すそをわれは旅びと君おもひ行く(以下五首高尾山にて) 思ひあまり宿の戸押せば和《なご》やかに春の山見ゆうち泣かるかな 地《つち》ふめど草鞋《わらぢ》声なし山ざくら咲きなむとする山の静けさ 山静けし峯《を》の上《へ》にのこる春の日の夕かげ淡しあはれ水の声 春の夜の匂へる闇のをちこちによこたはるかな木の芽ふく山 汽車過ぎし小野の停車塲《ていしやば》春の夜を老いし駅夫のたたずめるあり 日のひかり水のひかりの一いろに濁れるゆふべ大利根わたる 大河よ無限《むげん》に走れ秋の日の照る国ばらを海避《よ》けて行け 松の実や楓の花や仁和寺《にんなじ》の夏なほ若し山ほととぎす けふもまたこころの鉦《かね》をうち鳴《なら》しうち鳴しつつあくがれて行く(十首中国を巡りて) 海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ樹蔭《こかげ》に 幾山河越えさり行かば寂しさの終《は》てなむ国ぞ今日《けふ》も旅ゆく わが胸の奥にか香《かう》のかをるらむこころ静けし古城《ふるしろ》を見る 峡《かひ》縫ひてわが汽車走る梅雨晴《つゆばれ》の雲さはなれや吉備の山々 青梅はにほひぬ宮の古ばしら丹《に》なるが淡《あは》う影うつすとき(宮島にて) 山静けし山のなかなる古寺の古《ふ》りし塔見て胸仄《ほの》に鳴る(山口の瑠璃光寺にて) 桃柑子《かうじ》芭蕉の実売る磯街の露店《よみせ》の油煙《ゆえん》青梅にゆく(下の関にて) 寂寥や月無き夜《よる》を満ちきたりまたひきてゆく大海《おほうみ》の潮(日本海を見て) 旅ゆけば瞳痩するかゆきずりの女《をなご》みながら美《よ》からぬはなし [#痩は旧字] 安藝の国越えて長門にまたこえて豊《とよ》の国ゆき杜鵑聴く(二首耶馬渓にて) ただ恋しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠《はたご》の欄《らん》に倚るとき 白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人恋ふる身を(二十六首南日向を巡りて) 潮光る南の夏の海走り日を仰げども愁ひ消《け》やらず わが涙いま自由《まゝ》なれや雲は照り潮《うしほ》ひかれる帆柱のかげ 檳榔樹の古樹《ふるき》を想へその葉蔭《はかげ》海見て石に似る男をも(日向の青島より人へ) 山上《さんじやう》や目路《めぢ》のかぎりのをちこちの河光るなり落日《らくじつ》の国(日向大隅の界にて) 椰子の実を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る(以下三首都井岬にて) あはれあれかすかに声す拾ひつる椰子のうつろの流れ実吹けば 日向の国都井《とゐ》の岬《みさき》の青潮に入りゆく端《はな》に独り海聴く 黄昏《たそがれ》の河を渡るや乗合《のりあひ》の牛等《うしら》鳴き出《で》ぬ黄《き》の山の雲 酔い痴れて酒袋如《な》すわが五体《むくろ》砂に落ち散り青海を見る 労れはてて眼には血も無き旅びとの今し汝《なれ》見るやよ暮るる海 船はてて上《のぼ》れる国は満天《まんてん》の星くづのなかに山匂ひ立つ(日向の油津にて) 山聳ゆ海よこたはるその間《あひ》のなぎさに寝《い》ねて遠き雲見る 遊君《いうくん》の紅《あか》き袖ふり手をかざしをとこ待つらむ港早や来よ 大うねり風にさからひ青うゆくそのいただきの白玉《しらたま》の波 大隅の海を走るや乗合《のりあひ》の若きが髪のよく匂ふかな 船酔《ふなゑひ》のうら若き母の胸に倚り海をよろこぶやよみどり児よ 山も見ぬ青わだつみの帆の蔭に水夫《かこ》は遊女《いうぢよ》の品さだめかな 落日や白く光りて飛魚《とびうを》は征矢《そや》降るごとし秋風の海 船の上に飼へる一つの鈴蟲の鳴きしきるかな月青き海 港口黒山そびゆわが船のちひさなるかな沖さして行く 帆柱ぞ寂然《じやくねん》としてそらをさす風死せし白昼《ひる》の海の青さよ かたかたとかたき音して秋更けし沖の青なみ帆のしたにうつ 風ひたと落ちて真鉄《まがね》の青空ゆ星ふりそめぬつかれし海に 山かげの闇に吸はれてわが船はみなとに入りぬ汽笛《ふえ》長う鳴く 南国《なんごく》の夏の樹木《じゆもく》の青浪の山はてもなし一峠越ゆ 夕さればいつしか雲は降《くだ》り来て峯《みね》に寝《ぬ》るなり山ふかき国(三首日向高千穂にて) 月明《あか》し山脈《やまなみ》こえて秋かぜの流るる夜なり雲高う照る 秋の蝉うちみだれ鳴く夕山の樹の蔭に立ちゆく雲を見る 樹間《こま》がくれ見居れば阿蘇の青烟はかすかにきえぬ秋の遠空《とほぞら》(以下六首阿蘇にて) 秋の雲青き白きがむら立ちて山鳴《やまなり》つたへ天馳《あまは》するかな 山鳴に馴れては月の白き夜をやすらに眠る肥の国人《くにびと》よ ひれ伏して地の底とほき火を見ると人の五つが赤かりし面《つら》 麓野の国にすまへる万人を軒に立たせて阿蘇荒るるかな 風さやさや裾野の秋の樹にたちぬ阿蘇の月夜のその大きさや 秋のそらうらぶれ雲は霧のごと阿蘇の火つつみ凪ぎぬる日なり やや赤む暮雲《ぼうん》を遠き陸《くが》の上《へ》にながめて秋の海馳するかな(八首周防灘にて) 雲はゆく雲に残れる秋の日のひかりも動く黒し海原《うなばら》 落日のひかり海去り帆をも去りぬ死せしか風はまた眉に来ず 夕雲のひろさいくばくわだつみの黒きを掩ひ日を包み燃ゆ 雲は燃え日は落つ船の旅びとの代赭《たいしや》の面《つら》のその沈黙《ちんもく》よ 日は落ちぬつめたき炎わだつみのはてなる雲にくすぼりて燃ゆ ぬと聳えさと落ちくだる帆柱に潮《しほ》けぶりせる血《ち》の玉の灯よ 水に棲み夜光《よひか》る蟲は青やかにひかりぬ秋の海匂ふかな 津の国は酒の国なり三夜二夜《みよふたよ》飲みて更らなる旅つづけなむ(以下十三首摂津にて) 杯を口にふくめば千すぢみな髪も匂ふか身はかろらかに 白雲のかからぬはなし津の国の古塔に望む初秋の山(四天王寺に登りて) 物々しき街のぞめきや蒼空《おほぞら》を秋照りわたる白雲のもと 雲照るや出水《でみづ》のあとの濁り水街押しつつむ大阪の秋 大阪は老女《らうぢよ》に裾の緋縮緬《ひぢりめん》多きに残る日の暑《あつ》さかな 泣真似《なきまね》の上手《じやうづ》なりける小女《こをんな》のさすがなりけり忘られもせず 浪華女《なにはめ》に恋すまじいぞ旅人よただ見て通れそのながしめを われ車に友は柱に一語《ご》二語《ご》酔語《すいご》かはして別れ去りにけり(大阪に葩水と別る) 酔うて入り酔うて浪華を出でて行く旅びとに降る初秋の雨 昨日飲みけふ飲み酒に朽ちもせで白痴笑《こけわら》ひしつつなほ旅路ゆく 山行けば青の木草に日は照れり何に悲しむわがこころぞも(箕面山にて) 住吉《すみよし》は青のはちす葉白の砂秋たちそむる松風の声 秋雨の葛城《かつらぎ》越えて白雲のただよふもとの紀の国を見る 火事の火の光り宿して夜の雲は赤う明《あか》りつ空流れゆく(二首和歌山にて) 町の火事雨雲おほき夜の空にみだれて鷺の啼きかはすかな ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな(紀の国青岸にて) 紀の川は海に入るとて千本《せんぼん》の松のなかゆくその瑠璃の水 紀三井寺海見はるかす山の上の樹《こ》の間《ま》に黙《もだ》す秋の鐘かな 一の札所《ふだしよ》第二の札所紀の国の番《ばん》の御寺《みてら》をいざ巡《めぐ》りてむ 粉河寺遍路《こかはでらへんろ》の衆のうち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に 鉦々のなかにたたずみ旅びとのわれもをろがむ秋の大寺 旅人よ地に臥せ空ゆあふれては秋山河にいま流れ来る(葛城山にて) 鐘おほき古《ふ》りし町かな折しもあれ旅籠《はたご》に着きしその黄昏《たそがれ》に(二首奈良にて) 鐘断えず麓におこる嫩草《わかくさ》の山にわれ立ち白昼の雲見る 雲やゆくわが地やうごく秋真昼鉦も鳴らざる古寺にして(二首法隆寺にて) 秋真昼ふるき御寺にわれ一人立ちぬあゆみぬ何のにほひぞ みだれ降る大ぞらの星そのもとの山また山の闇を汽車行く(伊賀にて) 峡《かひ》出でて汽車海に添ふ初秋の月のひかりのやや青き海(駿河あたりにて) 旅の歌をはり 舌つづみうてばあめつちゆるぎ出づをかしや瞳はや酔ひしかも とろとろと琥珀《こはく》の清水津の国の銘酒白鶴瓶《はくかくへい》あふれ出《づ》る 灯ともせばむしろみどりに見ゆる水酒と申すを君断えず酌《つ》ぐ くるくると天地《あめつち》めぐるよき顔も白の瓶子《へいし》も酔ひ舞へる身も 酌《しやく》とりの玉のやうなる小むすめをかかえて舞はむ青だたみかな 女ども手うちはやして泣上戸泣上戸とぞわれをめぐれる あな可愛《かは》ゆわれより早く酔ひはてて手枕《たまくら》のまま君ねむるなり 睡れるをこのまま盗みわだつみに帆あげてやがて泣く顔を見む 酔ひはててはただ小《こ》をんなの帯に咲く緋の大輪《だいりん》の花のみが見ゆ ああ酔ひぬ月が嬰子《やゝ》生《う》む子守唄《こもりうた》うたひくれずやこの膝にねむ 君が唄ふ『十三ななつ』君はいつそれになるかや嬰子《やゝ》うむかやよ あな倦みぬ斯く酔ひ痴《し》れし夢の間《ま》にわれ葬《はふ》らずややよ女《をなご》ども 渇《かわ》きはて咽喉《のど》は灰めく酔ざめに前髪《まへがみ》の子がむく林檎かな 酒の毒しびれわたりしはらわたにあなここちよや沁《し》む秋の風 石ころを蹴り蹴りありく秋の街落日《らくじつ》黄なり酔醒《ゑひざ》めの眼に 山の白昼《ひる》われをめぐれる秋の樹の不断《ふだん》の風に海の青憶《おも》ふ 琴弾くか春ゆくほどにもの言はぬくせつきそめし夕ぐれの人 春の夜の月のあはきに厨《くりや》の戸誰が開《あ》けすてし灯《ひ》のながれたる かはたれの街《まち》のうるほひ何処《いづく》ゆかふと出でよ髪の直匂《ひたひほ》ふ子よ 春のゆふべ恋にただれしたはれ女《め》の眼のしほ恋し渇けるこころ 月つひに吸はれぬ暁《あけ》の蒼穹《あをぞら》の青きに海の音とほく鳴る 窓ひとつ朧ろの空へ灯をながす大河沿の春の夜の街 鐘鳴り出づ落日《いりひ》のまへの擾乱《ぜうらん》のやや沈みゆく街のかたへに 仁和寺の松の木《こ》の間《ま》をふと思ふうらみつかれし春の夕ぐれ 朝の室《むろ》夢のちぎれの落ち散れるさまにちり入る山ざくらかな 君見ませ泣きそぼたれて春の夜の更《ふ》けゆくさまを真黒き樹々を 一葉だに揺れず大樹《おほき》は夕ぐれのわが泣く窓に押しせまり立つ われとわが恋を見おくる山々に入日《いりひ》消えゆく峡《かひ》にたたずみ 燐枝《まち》すりぬ海のなぎさに倦み光る昼の日のもと青き魚焼く 秋の海阿蘇の火見ゆと旅人は帆かげにつどふ浪死せる夜を 油尽きぬされども消えず青白き灯のもゆる見よ寝ざめし人よ 昼の街葬式《とむらひ》ぞゆく鉦濁るその列形《れつなり》にうごめく塵埃《ほこり》 直吸《ひたす》ひに日の光《かげ》吸ひてまひる日の海の青燃ゆわれ巌に立つ 大ぞらの神よいましがいとし児の二人恋して歌うたふ見よ 君を得ぬいよいよ海の涯《はて》なきに白帆を上げぬ何のなみだぞ あな沈む少女《をとめ》の胸にわれ沈むああ聴けいづく悲しみの笛 みじろがでわが手にねむれあめつちになにごともなし何の事なし 塵浴《あ》びて街のちまたにまよふ子等何等ちひさきわれ君を恋ふ みだれ射よ雨降る征矢《そや》をえやは射るこの静ごころこの恋ごころ 吹き鳴らせ白銀《しらがね》の笛春ぐもる空裂けむまで君死なむまで 君笑《ゑ》むかああやごとなし君がまへに恋ひ狂ふ子の狂ひ死ぬ見て 山動け海くつがへれ一すぢの君がほつれ毛ゆるがせはせじ われら両人《ふたり》相添うて立つ一点《いってん》に四方《よも》のしじまの吸はるるを聴け 思ひ倦みぬ毒の赤花さかづきにしぼりてわれに君せまり来《こ》よ 矢継早《やつぎばや》火の矢つがへてわれを射よ満ちて腐らむわが胸を射よ 思ふまま怨言《かごと》つらねて彼女《かれ》がまへに泣きはえ臥さで何を嘲《あざ》むや わが怨言ききつつ君が白き頬《ほ》に微笑《ゑまひ》ぞうかぶ刺せ毒の針 [#頬は旧字] ひたぶるに木枯《こがらし》すさぶ斯る夜を思ひ死なむずわが愚鈍《ぐどん》見よ 生《なま》ぬるき恋の文かな筆もろともいざ火に焼かむ炉《ろ》のむらむら火 されど悲し欺く恋ひ狂ひやがて徒《た》だ安らに君が胸に死《は》てむ日 毒の香《かう》君に焚《た》かせてもろともに死なばや春のかなしき夕べ 胸せまるあな胸せまる君いかにともに死なずや何を驚く 千代八千代棄てたまふなと云ひすててつとわが手枕《ま》きはや睡るかな 針のみみそれよりちさき火の色の毒花咲くは誰が唇《くちびる》ぞ 疑ひの蛇むらがるに火のちぎれ投ぐるか君がその花の微笑《ゑみ》 疑ひの野火しめじめと胸を這ふ風死せし夜を消えみ消えずみ 君かりにその黒髪に火の油そそぎてもなほわれを捨てずや 恋ひ狂ひからくも獲ぬる君いだき恍《ほう》けし顔の驚愕《おどろき》を見よ とこしへに逃ぐるか恋よとこしへにわれ若うして追はむ汝を 紅梅のつめたきほどを見たまへとはや馴れて君笑みて唇《くち》よす こよひまた死ぬべきわれかぬれ髪のかげなる眸《まみ》の満干《みちひ》る海に いざこの胸千々に刺《さ》し貫《ぬ》き穴《す》だらけのそを玩《もてあそ》べ春の夜の女 『女なればつつましやかに』『それ憎しなどわれ焼かう火の言葉せぬ』 渇けりやそのくちびるの紅ゐは乾《から》びて黒しそれわが血吸へ あめつちに乾びて一つわが唇も死して動かず君見ぬ十日 『遣《や》るも行かじ死海《しかい》ならではよし行くも沈みて燃えむ』ねたみの炎 髪を焼けその眸《まみ》つぶせ斯くてこの胸に泣き来よさらば許さむ 微笑《ゑみ》鋭しわれよりさきにこの胸に棲みしありやと添臥しの人 毒の木に火をやれ赤きその炎ちぎりて投げむよく寝《ぬ》る人に 涙さびし夢も見ぬげにやすらかに寝みだれ姿われに添ふ見て 春は来ぬ恋のほこりか君を獲てこの月ごろの悲しきなかに 夕ぐれに音《ね》もなうゆらぐさみどりの柳かさびしよく君は泣く 君よなどさは愁《う》れたげの瞳して我がひとみ見るわれに死ねとや ただ許せふとして君に飽きたらず忌む日もあれどいま斯くてあり あらら可笑《をか》し君といだきて思ふこといふことなきにこの涙見よ ことあらば消《け》なむとやうにわが前にひたすらわれをうかがふ君よ 君はいまわが思ふままよろこびぬ泣きぬあはれや生くとしもなし 君よ汝が若き生命《いのち》は眼をとぢて美しう睡《ぬ》るわが掌《たなぞこ》に 悲しきか君泣け泣くをあざわらひあざわらひつつわれも泣かなむ 燃え燃えて野火いつしかに消え去りぬ黒めるあとの胸の原見よ さらばよし別るるまでぞなにごとの難きか其処《そこ》に何のねたまむ 撒《ま》きたまへ灰を小砂利《こじやり》をわが胸にその荒るる見て手を拍《う》ちたまへ 手枕よ髪のかをりよ添ひぶしにわかれて春の夜を幾つ寝し 別《わか》れ居《ゐ》の三夜は二夜はさこそあれかがなひて見よはや十日経《とをかへ》む 事もなういとしづやかに暮れゆきぬしみじみ人の恋しきゆふべ かへれかへれ怨《ゑ》じうたがひに倦みもせばいざこの胸へとく帰り来よ あなあはれ君もいつしか眼《まみ》盲ひぬわれも盲人《めしひ》の相いだき泣く 恋しなばいつかは斯る憂《うき》を見むとおもひし昨《きそ》のはるかなるかな わりもなう直《ひた》よろこびてわが胸にすがり泣く子が髪のやつれよ 心ゆくかぎりをこよひ泣かしめよものな言ひそね君見むも憂し さらば君いざや別れむわかれてはまたあひは見じいざさらばさらば 君いかにかかる静けき夕ぐれに逝《ゆ》きなば人のいかに幸《さち》あらむ 夕ぐれの静寂《しゞま》しとしと降る窓にふと合ひぬ唇《くち》のいつまでとなく 『君よ君よわれ若《も》し死なばいづくにか君は行くらむ』手をとりていふ 春哀《かな》し君に棄てられはるばると行かばや海のあなたの国へ 知らず知らずわが足鈍る君も鈍る恋の木立の静寂《しゞま》のなかに 怨むまじや性《さが》は清水《しみづ》のさらさらに浅かる君をなにうらむべき 恋人よわれらはさびし青ぞらのもとに涯《はて》なう野の燃ゆるさま 海の声 をはり
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底本:現代短歌全集 第一巻
出版社:株式会社筑摩書房
初版発行日:1980(昭和55)年12月20日
入力に使用:1980(昭和55)年12月20日初版第1刷
入力・校正:深水英一郎
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