[編集より]永井駿さんより原稿をお預かりして、短歌マガジンに選評掲載させていただいております。尚、永井さんは諸般の事情により選者を辞退され、選評発表は、自由詠のみとなります
はじめに
永井 駿と申します(元、長井めもです)。何者?という方はnoteの固定記事などをご参照ください。先月まな板杯という企画でも選評をしておりましたので、引き続き選評モードで応募作、全て楽しく読ませて頂きました。至らない部分もあるかと思いますが、どうぞお付き合いくださいませ。
今回、三部門それぞれ一席〜三席+佳作四首としました。長短ありますが、選ばせて頂いた歌には全て評を書かせて頂きます。全部門書き終わるには時間がかかるので、まずは自由詠から公開します。それでは、よろしくお願いします。
自由詠
一席
アンブシュアはほほえむかたち 朝露の花壇の横になんども立った
/石村まい
過去形の「立った」が凛々しく、また爽やかな景に惹かれて一席に選んだ。一般的に(という言葉は良くないかもしれないが)短歌は懐古に弱い文体である、ということを時折聞くが、この歌の「立った」の存在感はその弱さを振り払えているように思う。「立った」ことが時を超えて現在も主体を支えているような、そういうニュアンスがあるからかもしれない。
「アンブシュア」は、管楽器を演奏する時の口の形のこと。専門用語はまずそれを調べさせるという点で読者に負荷を生むが、その分引っかかり(一首の滞在時間を長くさせる)を作ることもできる。この「アンブシュア」を調べたい、と思わせる下の句、そして調べることで景が確かになる(吹奏楽の朝練に励んでいた主体)という順序性も含めて、良い読み心地の歌だと思った。
二席
冬の夜の月かげ澄みて水底によこたふきみに花を咲かせり
/碧乃そら
上の句の流麗さ、下の句はイメージでありながらもきみを慈しむ主体の様子を想起することができ、そこに惹かれて二席とした。景はかなり朧げだが、水底は月の見えている部屋のような場所だろうか。月影は「月のひかり」を表す言葉で、素直に読めばきみを照らす月影が花のように見えた、ということなのだろうけれど、非常に幻想的でうつくしい。
また水底は、きみの状態も表しているように思う。どこか弱っているニュアンスのきみに月は優しく差し、またそのきみを優しく見守る主体の心情をしみじみと思った。
三席
遠足で仔山羊を撫でる感覚で「法に触れてみよう」と誘う
/ef(エフ)
前提として法に触れてはいけないのだけれど、誘い方も誘われ方もすごく魅力的で、その魅力のまま三席とした。まず、上の句の感覚の描写が非常に的確に思う。この誘いはそれぐらい軽快で、出来心のようなものなのだろう。しかし誘われた方はどうか。共犯者になろう、という誘いは、その響きとは裏腹にかなり重い。
この歌のもう一つの面白さは、恐らく主体は誘われた側だと思うが、誘った側であることも完全に否定できないところだ。仔山羊を撫でる感覚で「誘う」ことも「誘われる」ことも、そのやりとり自体がとても魅惑的だった。
佳作
もろもろの答えはすべてアマゾンの奥地できみを待ち構えてる/ef(エフ) 指先がセロリだったらどうするか2回も考えたことがある/高遠みかみ 会うたんび有詩卵を産むにわとりへ用済みだから告ぐさようなら/瀬生ゆう子 蟻のごとくなづきに群るるひとびとのさわがしかるに錠剤を投ぐ/敦田眞一
佳作一首目。定型文のパロディ的な短歌なのだが、とにかくその投げ出し方が気持ちよくて笑わせてもらった。「もろもろ」が好き。
佳作二首目。2回も……?と思うと同時に本当に考えたことがあるんだろうな、という気にさせてくれる。「も」がいい。1回でも、それを考えるには多いのに、という「も」。
佳作三首目。「有詩卵」という造語が秀逸。この鶏はどこにいるのか、イメージの鶏だが、主体が頭のなかに飼っているのか、あるいは主体でない誰かのことを言っているのか。卵をもう産まなくなったのか、詩が不要になったのか、主体の心情の変化が切ない。
佳作四首目。錠剤は例えば頭痛薬か、あるいは安定剤などか。状態の比喩が的確で、また「投ぐ」というと地面に殺虫剤を撒くようなイメージだが実際は口内に薬が投げ込まれている。その後の主体の安寧を願う。
特別編
まま好きよ だからママ好き 毎日ね ありがとうね とても嬉しいよ /渓さんのお子さま
毎月短歌には投稿者のコメント欄があり、それを読むと投稿者のお子さまが作られた歌ということで、引かせて頂きました。
「まま好きよ だからママ好き」の順接は理屈を越えています。定型があって、そこに乗せようとするときの理屈を超越した感情に惹かれて、作品単独で読むべきとは思いつつも紹介をしたくなりました。子育て、頑張りましょう。わたしも頑張ります。
(文責:永井駿)