編註:塩本抄さんに預かった原稿を発表します。
毎月短歌14(自由詠)の選評を担当しました塩本抄です。2021年3月から作歌を始め、A短歌会、マイペース歌人会という短歌のオンラインコミュニティに属しております。
全134首のなかから、特に印象深く好きな歌を10首選ばせていただきました。作者名を伏せて選んでおります。とても素敵な歌がたくさんあるなかで絞るのは難しく、たいへん悩みましたが、基本的に「この作者にしか描けない」を短歌として描ききっていると思うものを選んでいます(もちろんわたしの独断と偏見です)。特選や佳作などはなく、十首選として選びました。拙い評で恐縮ですが、ご覧いただければ幸いです。
ラス1のお生理ちゃんと過ごしてる満月でも無く赤飯でも無く/雨
「ラス1」と断定していることから、病気による子宮摘出の予定を控えた場面と想像しました。女性にとって生理は大なり小なり煩わしいものだと思いますが、これが最後となると複雑な思いがあることでしょう。「お生理ちゃん」と愛しさをもって呼びかけている点、寧ろ切なく感じられて胸にきました。
下句、生理は月の満ち欠けに関係するとの説もありますが、主体の最後の生理は満月ではなかったようです。また初潮に赤飯を炊かれることはあっても、終わりに祝いや労りはない。現実はドラマとは異なり、淡々と進みます。主体の心情を直接描いていないぶん、惹き込まれました。一点惜しいのは下句の「無く」で、これは物が無いなどの「無い」ではなく否定の「ない」ですから、ここでは平仮名にひらくべきでしょう。しかしこの瑕があっても性の見つめ方が新鮮で切実だったことから、どうしてもこの歌の魅力に言及したく、選ばせていただきました。
アカウントを消した友達 平凡な日々の定義がそれぞれ変わる/奈々生ん
SNSのプロフィールに「日々の呟き」とか、「日常」と入れてあるアカウントは結構あるな、とこの歌を読んでふと思いました。主体と友達は、そんな日常呟き系アカウントとして繋がっていたのでしょう。しかし、ある時友達がそのアカウントを消してしまった。それまで友達との日常のゆるい共有を信じていたけれど、実は友達が辛さを抱えていたのだとわかってしまった。空白が暗転となり、主体の思い込んでいた日常のかたちが変わっていきます。「それぞれ」が効いていて、主体と友達との理解、共感の壁を強調しています。主体の日常も変わるけれども、アカウントを消したことで、友達の考える「平凡な日々」もSNSを利用していたときから変わっていくのでしょう。共感にとどまらず、わたしたちの見ているもの、信じている定義へ踏み込み問いかける秀作だと思います。
切り終えた毛先が風と遊んでる間に飲んだC.C.Lemon/てと
夏らしい一首ですね。初読で爽やかな気持ちになり、良いなと思った歌です。一方で炭酸飲料はしばしば詠む題材にされるため、どう個性を出すかがポイントになりますが、この歌は夏らしさに凭れた感情や勢いなどで勝負をしていません。あくまでC.C.Lemonを飲む状況の描写に留まっています。これで投稿するのはすごい度胸だと思いませんか?しかも、状況の捉え方が面白い。わたしなどは飲んでいるときに毛先が風に揺れているな、と気づくところ、「毛先が風と遊んでいる」のを邪魔しないように飲んでいるわけです。ここで初句の「切り終えた」を振り返ると、そうか、散髪後の嬉しさを髪に託して語っているのかとわかる。でも、その仕掛けに全然嫌味がないですね。歌の流れ、音の流れが練られていて、自然に景が見えます。更に結語のC.C.Lemonの具体で色味がプラスされて、爽やかさを引き立てています。この作者の短詩の世界をもっと読みたくなりました。
夏フェスに行かないほうの人生で読経の声に縦ノリをする/睡密堂
人と異なる人生経験を描く歌のなかでも、読経に縦ノリの歌は新鮮で目を惹きました。お寺を経営する家族の、なんらかの作務をすることになっている主体か、もしくは夏安居(夏季限定お籠もり修行みたいなものです)などに参加する2世信者の主体などを想像しました。本当は夏フェスに行きたかった感じがすごくします。毎年これがなければサマソニ行けるのになあ、なんて声が聞こえてきそうです。ただそれで人生を恨むというほどではなく、読経に縦ノリできるくらいには受け入れている(読経、馴染むとノれますよね。わかります、音が気持ちいい)。自分の人生に対する感情がユニークに、過不足なく描かれています。また読経の状況や、ちょっとクスッと笑える要素を入れていることもあってか、定型が気持ちよくはまっています。優れた歌だと思いました。
早足で歩けば鼻がちぎれそう 象をなだめるように歩いた/楼瑠
鼻から象へと身体の感覚が生々しく変わっていくのを、読みときながら主体と体験する、どきっとする歌です。早足で行きそうになる理由は明かされていませんが、「なだめるように」とあるから、すぐに立ち去りたくなったような憂き目に遭ったのでしょうか。あるいは単に鼻がちぎれるほど寒い日のことなのか。8月投稿分の選者としては前者としてとりたい。心痛が鼻をちぎりそうな感覚を、わたしも感じたい。いずれにせよこの謎めきはすごく素敵だなと思いました。上句「歩けば」下句「歩いた」と動詞の繰り返しがあり、勇気ある語の配置です。なだめるように、きちんと、歩く。強調のリフレインと読みました。またリズムに関して、aの母音の多用が、はっはっと口で息をするような感覚を連れてきて、歌の意味をうまく助けているように思いました。とても好きな歌です。
クレヨンで塗りつぶされた空を背に笑顔で並んでいる核家族/海老珊瑚
夏休みの宿題の絵日記や、家族を題材にした小中学生向けのコンクール提出作品などを思いました。どこか不穏な感じを受ける原因は、やはり「塗りつぶされた空」の表現でしょう。わたしの記憶では、高校美術までは「白い部分を残さず塗りつぶす」よう絵画指導されていました。であるならば本来これはありふれた、普通の明るい家族の絵であるはずなのに、敢えて塗りつぶすことを説明されると途端に息苦しくなってきます。また結語は家族ではなく「核家族」。この締めくくりからは、逃げ場のなさを思わせます。これらの要素から、笑顔の下の苦しさを表面化できない家族の不幸を、その一員たる主体が冷ややかに見つめているものと読みました。読み込むほどに背筋が冷たくなる感覚を味わいました。良い怖さのある歌で、強く惹かれました。
町中華レジに貼られた写真には「加油《じゃよう》」の文字とギターのピック/小久保柚香
描写から伝わる町中華の飾らない雰囲気と、スラング的な中国語による異国情緒にぐっときました。
「加油」についてネットで訳を調べてみると、中国語で「油を足してね」、転じて「頑張れ」的な意味として使われる表現とのこと。レジにそんな写真を貼っているということは、中国人スタッフがいる町中華なのでしょうか。バンド仲間からの応援が、まさにガソリンのようにスタッフを動かしていることを思い心が温まりました。そう読んだとき、主体は客の立場として、同じように、人が人を応援していることそのものを嬉しく思ったのだろうと思い至りました。主体、この町中華にまた行きそうな気配がしますね。
場面の切り取りが面白く、これは思いつきでぱっと詠める歌ではないものと思います。作者の観察の鋭さに畏れいるばかりです。
類推の途切れた道をゆく日々のすべての犬に吠えられながら/畳川鷺々
ここでの類推は、過去の似た事例から予測する未来のようなものと読みました。望む未来への困難な道をゆくとき、いったんわたしたちは、手がかりとしてどうにか自分や他人の成功例などを探ってみます。でも、結局は推測しきれず、主体は己にしか歩めぬ未知の道を進むしかないのですね(そう、道は未知と響き、掛詞を思います。ここはおっと思いました)。それも、下句を読む限り、あまり周囲から理解される進路ではなさそうです。犬が吠えるのは彼ら自身の警戒心によるものでしょう。人が新しいことをするとき、前人未到の地を目指すとき、ほとんど必ず否定の声は湧き起こるものです。それらを浴びてなお颯爽と我が道をゆく、その潔さ。そこに感嘆するとともに、単なる宣言にとどまらずきちんと詩になっていることに嬉しくなりました。途切れた道の喩え、犬の喩えが効いています。また細かなところでは「日々の」とあることで、主体の、茨の道のような日常に肉薄する感覚を味わいました。読者の背を押し、また押してくれたような格好良い歌です。
名を知れば僕のものではなくなった花や小石やアパートの猫/白鳥
すん、と指先がわずかに冷たくなる感覚をもたらす一首です。所有することによる安心感など、結局はかりそめのものであることを、この歌を読めば分かってしまうからでしょう。鋭い感覚の歌だと思います。とはいえ、読者に向けて問いを放つのではなく、あくまで自省として淡々と語られるところにこの歌の魅力があると思いました。主体は自宅の近所などで見つけた小さなものたちを、自分だけの楽しみとして、人知れず愛でていたようです。しかしたとえ雑草や路傍の石であっても、大概のものは既に名付けられ分類されているものです。しまいには、アパートの猫の名前さえ知ってしまった。もともと主体のものではないのは分かっていたけれども、名前を知った瞬間、無垢なものたちへの己の所有の意識に気づいたのだと読みました。切なさの奥の意識を見事に拾い、仕立てた歌です。
帰りたくないのだろうね 送り火の青い火、風で苧殻が湿気る/せんぱい
送り盆の景ですね。苧殻(おがら)は麻の茎を剥いで内部を乾燥させたもので、麻がらとも言うのだとか。苧殻の煙はあの世とこの世を繋ぎ、迎え火のときには霊をこの世へ降ろし、送り火のときにはあの世へ連れていくものと聞きます。この苧殻が湿気るという、具体的な描写がすごくよくて、リアリティがあります。それまでの心情的な描写からの落差が一層気持ちいいですね。
田舎の夕方に吹く風は強く、今年などは特に暑さも湿り気も引かない、肌にべたつく風であったことを思い出します。苧殻の燃え方に勢いがないのは、環境的にはそのような理由からであって、主体もそれを分かっています、「風で」と言っているので。しかしがし火が弱い本当の理由は「帰りたくない」だろうから。今は亡き近しい親族を思うような語りかけです。故人にとって親しい人々の、賑やかで楽しいお盆だったのでしょう。
いま・ここで見た、思ったことを衒わず描写すること、それこそが胸に響くのだと、この歌からつくづく感じました。とても美しい歌です。
(選評・塩本抄)
修正のお知らせ:「夏フェスに行かないほうの人生で読経の声に縦ノリをする」の作者を当初間違えておりました。大変失礼いたしました。この作品は睡密堂さんの作品です。謹んで訂正いたします。