【最初に】
1985年。この年は歌人・俵万智が第31回角川短歌にて次席を受賞し、歌人デビューを果たした年である。俵の歌は一般的に「口語短歌」に分類できると考えるが、この口語短歌と銘打つものは、短歌史上において複数の分類をせねばならぬと考えている。
口語短歌の定義を簡単に記す。
口語短歌は明治以降「前衛短歌」として、それ以前の風月花鳥を廃し「現代性」を表出させた、いわば「短歌の革命」として興った。
この流れは戦争戦後と続き、昭和・平成・令和へと流れていくが、現在の「口語短歌」は最初に興ったそれとは様相を異にする。
現在の俳句・短歌を確立した立役者は正岡子規と言えるだろう。子規に続くひとりの漂白歌人がいた。山崎方代《やまざき ほうだい》である。
甲府市HPに方代の解説がある。
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/gejutsu/houdai.html
上記解説より一首を引く。
“私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう”
(歌集『こおろぎ』より)
この一首に現実の方代の生き方が反映されているか否か、そこは論の分かれるところであろう。私は、この歌に方代の優れた「演技性」を見るのだ。方代の晩年、その歌に次のものを見つけた。
“本当の嘘をまじえたお話をして少女子(おとめご)の心ほぐせり"
この一首にある「本当の嘘」は刮目してしかるべきだろう。山崎方代の歌集について、現在入手しやすいものを下記に上げる。
もしもし山崎方代ですが 単行本 – かまくら春秋社 2004/4/28
ISBN-10 : 4774002666
ISBN-13 : 978-4774002668
この世界を後ろにして、短歌はどんな歩みをなしていったのか。筆者である私の独断ではあるが、以下綴っていきたい。
【現代短歌と呼ばれた時代があった】
明治以降、和歌を短歌へと「解放」した正岡子規以降の流れを、第二次世界大戦終了後、昭和初期まで簡単に俯瞰したい。
1. 正岡子規と和歌解放の先駆者
明治時代に登場した正岡子規は、和歌を新たな表現形式として位置づけ、短歌への解放を提唱。1899年に死去するも、その影響は大正時代以降も続き、短歌の新しい機軸を築く礎となる。
2. 大正時代の短歌の花開き
正岡子規の死後、大正時代に入ると、彼の提唱した短歌の自由な表現が実を結ぶ。新しい形式やテーマ性が詩人たちによって模索され、短歌の多様性が広がる。
3. 永田耕衣と自由律の提唱
永田耕衣は大正時代、独自の短歌スタイルとして「自由律」を提唱。彼の活動によって、従来の音数や季語にとらわれない新しい表現スタイルが広がりつつある。
4. 北原白秋と歌壇のリーダーシップ
北原白秋は大正時代から昭和初期にかけて、歌人としてだけでなく、文学運動のリーダーとしても活躍。彼のもとで、短歌は社会や人生に対するリアルな感情を表現する手段として確立された。
5. 年表に見る歩み
1899年:正岡子規死去。和歌から短歌への道が開かれる。
1912年:大正時代、短歌の新しい機軸が築かれる。
1920年代:永田耕衣が「自由律」を提唱し、短歌に新たな風を吹き込む。
1930年代:北原白秋が歌人として、また文学運動のリーダーとして活躍。
●前衛短歌という「時代」
以下、岡井隆と塚本邦雄の活動を、簡単に年表として記載する。なお、記載の多くをネット百科事典Wikipediaによることを予めご了解いただきたい。
岡井隆の歌人活動年表:
旧制愛知一中(現愛知県立旭丘高等学校)、旧制第八高等学校、慶應義塾大学医学部卒。医学博士の学位を取得。内科医師として、国立豊橋病院内科医長などを歴任した。
1947年、愛知県名古屋市東区主税町に生まれる。
1945年、17歳で短歌を始める。翌年「アララギ」入会。
1951年、編集・発行人をつとめる「未来」創刊に加わる。
1956年、第一歌集「斉唱」上梓
1962年、第2歌集『土地よ、痛みを負え』白玉書房 上梓
以下、歌集上梓が続く。
『海への手紙 歌論集』白玉書房 1962
『朝狩』白玉書房 1964
※1957年より吉本隆明と繰り広げた「定型論争」とそれを経た前衛短歌の理論的基礎については後述する※
1970年より執筆活動を途絶。
1975年『鵞卵亭』六法出版社 上梓、活動を再開。
1982年、『禁忌と好色』不識書院 により、迢空賞を受賞。
1985年以降は、W・H・オーデンらの影響からライト・ヴァースを提唱、
口語と文語を融和した柔らかい作風に転換。
1983年から、中日新聞・東京新聞に『けさのことば』を連載。
2014年まで日本経済新聞歌壇選者、中日新聞の歌壇選者も1983年から長年にわたり務めた。
1993年から歌会始選者となり宮廷歌人となる。
歌壇では批判と論争が起こった。
1989年より1998年まで深作光貞の誘いにより京都精華大学人文学部教授。この時同僚だった上野千鶴子と交友を持ち始める。
1995年、『岡井隆コレクション(全8巻)』思潮社 が現代短歌大賞を受賞。
1999年、歌集『ヴォツェック/海と陸――声と記憶のためのエスキス』
平成11年/1999年3月・ながらみ書房刊
及び
『短歌と日本人』(全7巻)の企画編集
1998年12月~平成11年/1999年6月・岩波書店刊
により毎日芸術賞を受賞。同年、蜷川幸雄や高倉健も同賞を受賞している。
2007年宮内庁御用掛。日本藝術院会員。
2010年、詩集『注解する者』により高見順賞を受賞。『詩の点滅』など歌集、評論集多数。
2016年、文化功労者選出。
2020年7月10日12時26分、心不全のため死去。92歳没。同日をもって従四位叙位、旭日中綬章追贈。
代表作
耳は眼を覆わむばかり 雨少女ザムザザムザムわれに蹤きくる
桜なんか勝手に咲けよまだすこし怨念がある昨日の夢に
海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ
蒼穹は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶
くッと言ふ急停車音広辞苑第三版を試し引き居れば
スラリ一すぢ白色灯を差しかへて脚立を下りる時の眩暈
塚本邦雄の歌人活動年表:
寺山修司、岡井隆とともに「前衛短歌の三雄」と称され、独自の絢爛な語彙とイメージを駆使した旺盛な創作を成した。
1929年、滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)に生まれる。
1938年、神崎商業学校(現・滋賀県立八日市高等学校)卒業。
卒業後、又一株式会社(現三菱商事RtMジャパン)に勤務しながら、兄・塚本春雄の影響で作歌を始める。
1943年、地元の短歌結社「木槿」に入会。
1947年、奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事。
1950年に他界した杉原一司の追悼として、1951年に第一歌集『水葬物語』を刊行。
同歌集は中井英夫や三島由紀夫に絶賛される。
1956年、第二歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』
1958年、第三歌集『日本人靈歌』を上梓。
以下、歌集を中心とした多数の出版物がある。詳細は略する。
1985年、に歌結社『玲瓏』を設立して機関誌『玲瓏』を創刊。
以後(没後も)一貫して同社主宰の座にある。
1990年より近畿大学文芸学部教授としても後進の育成に励んだ。
2005年6月9日死去。
主な受賞歴
1959年 『日本人靈歌』で第3回 現代歌人協会賞 受賞。
1987年 『詩歌變』で第2回 詩歌文学館賞 受賞
1989年 『不變律』で第23回 迢空賞 受賞
1990年 紫綬褒章 受章
1992年 『黄金律』で第3回 斎藤茂吉短歌文学賞受賞
1993年 『魔王』で第16回現代短歌大賞受賞
1997年 勲四等旭日小綬章 受章
反写実的・幻想的な喩とイメージ、明敏な批評性と方法意識に支えられた作風によって、岡井隆や寺山修司らとともに、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響を与えた。坂井修一、藤原龍一郎、中川佐和子、松平盟子や加藤治郎、穂村弘、東直子らのいわゆるニューウェーブ短歌にも影響を与えている。
よく知られる歌
革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ(『水葬物語』巻頭歌)
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』巻頭歌)
突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼(『日本人靈歌』)
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ(『感幻樂』)
以上が、岡井隆と塚本邦雄の略歴である。俯瞰すると時代と共にしなやかに変わっていった岡井と、一貫した孤高の姿勢を貫いた塚本。正反対のようでいて、実の処は相似形と言えるのではないか、と考えている。
塚本邦雄に評伝とも呼べる一冊がある。息子である青史氏が記した『わが父塚本邦雄』出版社:白水社 発売日:2014-12-14 である。
以下に、平明かつ優れた書評を挙げる。
https://honz.jp/articles/-/41149
ここで出口氏も語っておられるように、塚本という人は「亜流惰性を禁忌した」人といえよう。
歌は歌びとの数だけ存在する。文語口語、古典現代を云々する前に、技法を徒に追い求める前に。私たちは「何故詠うのか、詠わずにはいられぬのか?」と自らに問いかけ続けたいと思う。
以下、ネット記事にある岡井隆のインタビュー記事を挙げる。
【自作再訪】岡井隆さん「土地よ、痛みを負え」 前衛短歌は「滅亡論」への反論(1/4ページ)
産経ニュース
https://www.sankei.com/article/20170220-F6ERFXHQTBID5IHNC2X2LRFK2A/
ここに、岡井隆が比喩に託した短歌の可能性、その希望があり、「第二芸術論」との「論争」なる仰々しさとはまた異なる、岡井が私たちに残した灯火を見るのである。
以下、記事より引用する。
“最近は重苦しくなく、軽みのある歌をつくりたいと思うんです。やっぱり歌が好きで、万葉以来の素晴らしい歌にならいたいという気持ちが大きい。
インターネットの普及で日本語も変化にさらされているけれど、それを嘆かず、瞬間の思いを短い一首に込め続けたい。
自分が生きていくためにどうしても歌が必要なんですよ。"
この言葉を受けて、ネットで詠うことが当たり前の行為となった我々は【何を詠うのか】。岡井や塚本以降の歌の歩みに、それを追ってみたい(以下、No2.以降に続く)。
【補記】
桑原武夫の評論集『第二芸術論』に関する要点を以下に記す。
第二芸術論の概要
桑原武夫は、俳句が現代人生を表現するには不十分であると主張し、「第二芸術」として他の芸術形式と区別すべきだと論じ、大家と無名の作者の俳句を混ぜて提示し、名前を伏せれば優劣がつけられないと指摘した。
俳句の党派性を批判し、学校教育から排除すべきだと結論づけた。
岡井隆との関連
岡井隆は、短歌における思想性を導入し、前衛短歌運動の先頭に立った。
ナショナリズムやその他の先鋭的な主題を短歌に取り入れ、新たな表現への模索である。
岡井隆は、桑原の「第二芸術論」に対して、短歌の可能性を信じ、その伝統を守る立場から反論を展開したと考えられる。
先述のインタビュー記事から岡井隆の言葉を借りて記し、この拙い稿の区切りとしたい。
“戦後まもなく、「第二芸術論」というのが流行します。第一芸術はあくまで小説や戯曲。短歌や俳句は第二芸術で、日本の知性を表現するのには邪魔であり、やめた方がいい-。
大まかに言えばそんな論です。
この短歌滅亡論がすごい勢いで広がった。そのとき、塚本さんや僕が思ったのは「本当にそうかな?」という疑問です。
象徴や比喩を多用し、ときには虚構も扱う。
そういう手法も取り入れたら、短歌にももっといろんなことが可能じゃないかと。
前衛短歌運動というのは、第一に短歌滅亡論に対する短歌をやっている人間からの反論だったんです。"