[編集より]石村まいさんのエッセイです。いいね!や感想、応援コメントをお待ちしております。
■猫舌で得したい
無理だとわかっているが、せめてもの願いとして題してしまった。全世界猫舌メンバーズシップのみなさん、生を受けてからいまに至るまで、猫舌でよかった~!と思った瞬間が一度でもあっただろうか。わたしは無い。かなりしっかりと人生を振り返ったが、ひとつとして無い。かなしいことである。
アツアツがおいしい食べ物はアツアツでいただくに限る。冬のお鍋であたたまった絹ごし豆腐がふるふると取り皿に座っている。まだだぞ、いかんぞ、と自分に言い聞かせる。冷めやすそうなちっちゃい白菜の切れ端をいちおうフーフーしてから食べる。目の前の豆腐の湯気がほわほわっと止まない。お隣をちらっと見ると、豆腐をはふはふして満面の笑み。あーっいかんぞ……でももう待てない、とりあえず近くのネギを! するとあらまあネギの中のとろっとしたところも溶岩のごとき熱さで、きれいに舌ヤケドのフラグを回収して終了。豆腐であれだけ学んだのに、ネギ、君もだったね……。
そもそも鍋なんてすべての具材が保温以上の熱さで保たれていて、そこが良いのだけれど、猫舌としてはそれを十分に味わえないのが悩ましい。取り皿の前でちょっと待機するあの時間、なにかを失っている気がする。豆腐のおそろしさは鍋に限らず、麻婆豆腐だってただでさえ辛いのだから熱さマシマシ。これでもかとフーフーしまくってから口へ運んでも、だいたい舌先を微妙にいじめてしまうのが世の理である。それがおいしいんやけどな☆ とnot猫舌は語る。しかし毎回、舌を犠牲にするのも舌および痛覚にしのびないので考えものだ。
コンビニやコーヒーショップでホットコーヒーをテイクアウトするときも気が抜けない。ただの紙コップやろとなめていたらほんまにあかん、あれはなかなか温度の下がらないスグレモノなのだ。カップの蓋にはぽこんと押し込む箇所があって、その小さな飲み口からいただくのだが、これがもう難関たることこのうえない。あんなちっさいとこから冷たい息を的確に入れ、その先にひろがるコーヒーをまんべんなく冷ますなんて、ひょっとこのお面でしかできんやろ。あのカップで何度もやらかした経験があるので、蓋はもう無いものとして、直接カップをフーフーして冷ます。当然テイクアウトには向いておらず、ちょっとでも歩いたらこぼしそうになるし、とりあえず最初だけ付けておいた蓋が急にごみになってあっちも困惑しているし、いざ中身は冷めはじめたら爆速で冷えていくのが常である。結局、なぜホットで頼んだのかわからない激ぬるコーヒーをずぞぞぞと飲み切って歩き出すはめになる。
個人的にいちばんくやしいのがたこ焼き。お祭りなどの屋台で買っちゃうアレ。たこ焼き器で焼くのも楽しい。いずれにせよ、焼き立てのまるまるふっくら、かつお節のミラクルダンスのその最中にかぶりつきたい。でもあの中のふわとろの熱さといったら! 鍋の豆腐と同じくらいか、下手したらそれ以上である。ひと口でいくと舌どころか喉までも終わりに向かってしまいそうなので、いつもせっかくまるくしてくれた生地を楊枝で裂くか、なんとか半分だけかぶりつくかして熱さを軽減する。猫舌でなくても、できたてのたこ焼きは熱いと思うけれど、我慢できるレベルが高いほうが、たこ焼きの真のおいしさを堪能できるに決まっているのだ……!
猫舌でないひとびとは、このように猫舌の抱えている鬱屈した悩みを存分に理解されたし。そのうえでアツアツのものをアツアツのまま楽しむべし。ちゃんと半分残しておいてください。あどでだべまずがら(号泣)
【文・石村まい】
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